手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
山城ろうあ協会は、京都市以外の奈良県境までのろうあ協会でつくられていた。
1968(昭和43)年当時は、ガリ版で印刷された機関紙。
大変な努力であったことが会議の「議」がマス目に切り込めないので「ギ」なとと書かれていることからもうかがえられる。
一人が話をすれば
話をしないひとりが口話を見て記録する
もう、ほとんど色あせて、ほろぼろになった山城ろうあ協会ガリ版印刷で刷られたざら紙の記事を再現してみた。
それにしても、これほどの会話をどのように記録したのであったのか、後日聞く機会があった。
手話通訳なんてとてものぞめないから、一人が話をすれば、話をしない一人が口話を見て記録する。
福祉事務所の職員の口話を読み取るのは簡単だった、と言われた。
口話で読み取って書かれた
機関紙の記事が大問題へと
当時、行政は社会福祉協議会を通じて障害者団体への助成を行っていたが、社会福祉協議会は福祉事務所に置かれ、職員が対応していた。
ところが、口話で読み取って書かれた機関紙の記事が大問題へと発展していくことになる。
信じられないほどの少ない給料や日当から
ろうあ協会の会費を集めて運営
月給1万5千円そこそこで生活、というろうあ協会の役員が言った給料の金額は現在の価格から想像も出来ないだろうが、当時ではろうあ者の中ではまだましな給料であったから悲しい。
役所が早く団体助成をしてくれないから、給料から、立て替えてでもろうあ協会の団体費用をまかなわなければならない。
この切実さを今日の状況で理解するのは難しいかもしれない。
ただ、ろうあ協会は、団体助成にだけ頼っていたのではない。
今では信じられないほどの少ない給料や日当からろうあ協会の会費をみんなで集めて運営をしていた。
でも、ろうあ者だからと会場を借りるのを断られたりするため高い会場費を払わなければならなかった。
「読み書き出来る」会員が
機関紙を配りながら中身を説明する
また、みんなが今の世の中のことを知りたい、という切実な要求を持っていて、市役所から社会福祉協議会を通じて支払われる団体助成金で学習会を開いていた。
だから、一日でも早く支払ってほしいという気持ちで、役所に行ったのだが、障害者団体の手続きが遅いからと言われたりする。
当時の山城ろうあ協会の会員の多くは、学校にも行けずに、「読み書き」も出来ない会員がほとんどだった。
この会員の気持ちをくんで、「読み書き出来る」会員が、山城ろうあ協会の機関紙を作成していた。
受け取った会員の大半は、その機関紙を読むことが出来ないため、機関紙を配りながら、中身を説明するのも機関紙を作成した会員の仕事だった。
だから、山城ろうあ協会の機関紙は、「読み書きの出来ない」会員にとっては、自分たちの新聞であり、自分たちのことを言ってくれている新聞だったのである。
大事に、大事に保管されていた。