手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
ろうあ者の福祉を
なおざりにしてきた過去が暴かれることに
1968(昭和43)年7月山城ろうあ協会の機関は、宇治市に大問題を投げかけ、ろうあ協会の主張が誰しも認めることとなった。
そればかりか、宇治市がろうあ者の福祉をなおざりにしてきた過去が暴かれることになると宇治市役所内で「動揺」が生まれたが山城ろうあ協会の追求はやむことはなかった。
恨みや怒りを晴らす
感情的なものでなかったので
人々の共感を生み
宇治市の不当性 ごまかしが明るみに
山城ろうあ協会が機関紙は、「ペンは剣よりもつよし」ということも証明した。
何度も繰り返して述べるが、読み書きの出来ないろうあ者、学校に行けていないろうあ者も、今だから明らかに出来るが失聴して全く聞こえなくなった医師(当時は聴覚障害があると医師免許がとれず医師になれなかった。しかし、医師になってから失聴すると医師免許を返還しない限り医師になれたたのだが‥‥‥。現在はそういうことは大幅に改善されているが。)も手を携えて「笑いながら」「怒りながら」、不当なことを許さない胎動がはじまったのである。
それは今までの、恨みや怒りを晴らす感情的なものでなかったためよけいに人々の共感を生み、宇治市福祉事務所・宇治市の不当性、誤魔化しが明らかになって行った。
「仲よくやりたい」と言いながら
「なぜ、ろうあ協会の責任で手話通訳を呼ぶのか」
「故意にだまっていたのではありません。話がおくれていたのです。全部ろうあ協会のものではないということです。こんどは通やくさんが入るのですか。こんどは私の方も、福祉係長も一しょに話に出てもらうことにする。仲よくやりたい」はすでに掲載したが、この筆談で問題にされたのは、「福祉係長も一しょに話に出てもらうことにする。仲よくやりたい」としながら、「こんどは通やくさんが入るのですか。」と書いていることをろうあ協会は重大な問題とした。
市の方が、
「仲よくやりたい」
としながら、
「なぜ、ろうあ協会の責任で手話通訳を呼ぶのか」
「市の方が責任を持って手話通訳を呼ぶのがあたりまえではないのか。」
と山城ろうあ協会は宇治市を追求した。