手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
見よう見まね、と言っていいのかどうか迷うが、あえて書くと、HAさんの写しとった会員の名前は形だけで何となく自分の名前が書かれていると分かる程度だった。
でも、だれ一人HAさんに文句も言うろうあ者はいなかった。
土砂降りの雨の中でも
機関紙配布を続け
「ありがとう。」
その一言から、HAさんの会費集めと機関紙配布がはじまった。
彼は、雨が降ろうが、雪が降ろうが会費集めと機関紙配布を続けた。
台風が来て、こんな土砂降りの雨の中では絶対機関紙を配らないだろうと思って、ひょっとして、と思ってポストをのぞいてみると、機関紙が入っていたなどHAさんの決意に対してみんなの評価は高まる一方だった。
手話表現も豊かになり、HAさんと親しくなる人の輪が広がり、ついに結婚することになった。
ささやかな祝いの席に大勢のろうあ者が集まってHAさんの「この世の春」がはじまった。
悲しみに浸ることなくひたすらに
友人知人が、しばしばHAさん宅を訪れて、日々楽しい団らんがHAさん宅で広がった。
でも、彼は約束通り、一時も会費集めと機関紙配布をおこたることがなかった。
ところがある日。
HAさんの奥さんが、他の男と逃げだしていた。
家の金もすべて持ち出されて、HAさんはスッカラカン。
そればかりか、奥さんの居ない部屋でさびしく過ごすことも多くなった。
ろうあ協会の会員の中では、
「きのどくになぁ」
「HAさんに対してひどいことする。」
と言う同情の声が日増しに高まり、
「今回からは、HAさんが会費集めと機関紙配布に来なくなっても絶対みんな何も言ったらダメや」
という打ち合わせが行われた。
みんながみんな、HAさんはしばらく来ないだろうと思い込んでいた。
「よくわかったで」「ありがとう」
しかし、HAさんはいつもの通りきっちりやってきて会費を集める、機関紙を配布する仕事を続けた。
みんなのほうが、おどおどしたがHAさんの決意と態度は揺るぐことはなかった。
それからしばらくして、ふっ、とろうあ協会の会員が気づくと、いつしか、
「会員の名前は形だけで何となく自分の名前が書かれていると分かる程度だった文字」
が、きちんと書かれ、いろいろな誤字はあるもののポストに入れられたHAさんのメモは意味が通じるようになっていた。
「HAさん、かけるようになったんや」
「よくわかったで」
「ありがとう」
とろうあ協会の会員のみんなが言うようになった。
その時のHAさんの満面の笑みは、今まで最高のものだった。