手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
Kさんが宇治市手話言語条例のコメントで ろう者同士で話すため自然に手話を覚えました、と言うのには数え切れないほどのろうあ者の哀しみと非人道的扱い、障害者間の対立と侮蔑の投げつけ合い、障害者問題を排他的に考えるのではなく一致点で連帯して考える行動などさまざまなことが織り込まれ人間連帯の模様が描き出されているようにも思える。
いつも噛み合っていない
口話法がよいか、手話法がよいか
1960年に書かれた口話法がよいか、手話法がよいか、という熾烈で激烈な理論的、実践的論争。
それが変形して、論争が続いている様子を見かける。だがこの論争はいつも噛み合っていないから不思議である。
もともと一人の人間がこの複雑な世の中で、人間としての権利の享受を全とうして、生きていくという大テーマの内容は想像するだけでも困難なもの。
教育の方法論だといっても、口話法、手話法だけで律し切れるものではない。
ろう学校の教師が手話を学べば
ろう学校の生徒が
授業が理解出来るかのように
ろう学校の教師やその他の人々が「ろう学校では、手話は禁止された。」ということを理由に「ろう学校に手話を」と主張し、ろう学校の教師が手話を学べば、あたかもろう学校の生徒が授業が理解出来るかのように教育の一方法だけで教育内容が向上するかのように短絡的に主張する傾向が強くなっている。
だがそれならばその根拠と立証をしなければならない。
これ以上手話を使って
干渉されたらたまらん
Kさんは、50年以上前から「ろう学校の先生が手話をしてほしい」と言うことに対して、
「いらんいらん」
「これ以上手話を使って干渉されたらたまらん」
「ろう学校の先生が、手話を知らんから楽しいろう学校生活過ごせたんや。」
「手話を覚えたら言うこと決まってる、もっと宿題してきなさい、」
「静か?に」
「勝手な話をしないで」
「そんなことばっかり言うだけや」
「勉強はそっちのけ」
「勉強分かるように教えてくれないのに、叱るのがふえるだけ。」
何度もこのようなことを言い続けていた。
ろう学校の教師が手話を覚えると快適なろう学校生活が送れなくなるというKさんの話を傾注して教育とはなにかを考えてきた。
宇治市手話言語条例 (施策の推進)
第5条本市は、次の各号に掲げる施策を総合的かつ計画的に推進するものとする。
⑷学校等が行う手話及びろう者への理解の促進に関する活動の支援に関すること。