手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校創立65年  ひとしく教育をうける権利がある

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手話を知らない人も

                   手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 「ろうあ者の方々のために、本当に生きがいのある社会にするように努力してまいりたいと、これはお約束いたします」で、1966(昭和41)年12月21日京都府議会本会議で知事が言ったこと。

 

 このことばは、何度も反芻されてきた。

 

「本当に生きがいのある社会」の意味

 

 だが、知事の言った「本当に生きがいのある社会にするように努力してまいりたいと、これはお約束いたします」の「本当に生きがいのある社会」の意味は充分理解出来ていなかった。

 

 その意味が分りかけてきたので順次述べていきたい。

 

 すでに掲載した、「丹後小町が選んだ相手は豪商の息子だったが、貧困だけが待っていた 」のタイトルのところで次の文章を書いた。

 

 2011年の夏前。岩滝町にある与謝の海養護学校を訪ね、そこの校長をしていた故A先生の加悦町の家を訪ねた。

 

 二つの町は、今はひとつになり与謝野町となっている。
 
 車で走りながら、豪商の息子だったろうあ者のIさんが通ったであろう旧道をなぜかしら見ていた。

 

京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校が創立65年
   与謝の海養護学校創立50年

 

 与謝野町に行ったのは、奈良大学教育学部のT先生が、京都の障害児教育、とりわけ与謝の海養護学校の設立とその教育を研究されていたので、少しだけ協力させてもらっていたからだ。

 

 T先生は、与謝の海養護学校に関する膨大な資料と研究をされていて、つい最近、二度目の宮津市与謝野町への道行きとなった。

 

 与謝の海養護学校(現在は、京都府京都府教育委員会が与謝の海支援学校と名称を変更させたが、与謝の海養護学校をつくってきた人々に尊敬の念を込めてこの名称で書く。)の先生たちとの意見交換をして、与謝の海養護学校をつくってきた一人であるあるお母さんと宮津市内で会った。

 

 その与謝の海養護学校は2018年の今年、創立50年を迎えるが、同時に京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校が創立65年を迎えた。

 

 京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校が創立65年を迎えた集会は、本年、2018年2月17日に記念集会が開かれ、与謝の海養護学校も50周年を迎えてその記念集会の準備がすすめられている。

 

 与謝の海養護学校京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校が、ともに地域の人々や障害児者やその家族でつくられた学校であることは、知られているようで知られていないように思う。