手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
みえる建物より
まず優先すべきは教育機会
与謝の海養護学校と京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校の三校とも仮校舎からの学校と教育づくりがすすめられた。
そこには、すべてのこどもにひとしく教育を、というねがいが籠められている。
京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校の設立と永くろうあ協会で伝承されてきた血と涙の努力の伝承の一部を紹介しておきたい。
教育が受けられない苦しい思いが
潰されるて行くことは許せない
京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校は、1952(昭和27)年 6月16日 舞鶴市西公民館を仮校舎として開校された。(盲2名・聾3名) (以下舞鶴盲聾分校)
そして、1952(昭和27)7年10月31日 舞鶴市南田辺に移転。
1953(昭和28年)3月18日 新校舎本格開校となり、順次、寄宿舎、運動場、幼稚部などが設置されるが、1985(昭和60)年に聾分校中学部 本校に統合された時に大反対運動が起きた。
その反対運動の先頭に立ったろうあ協会の役員は、戦前戦後も教育が受けられないで苦しい思いをし続け、学べる学校ができたのにそれを潰されることは、時代を逆行させて私たちから学ぶことを奪い去ることになる。
きれい事ではないが
でも同じ学ぶ機会を
1952(昭和27)年 6月16日 京都府立ろう学校舞鶴分校・京都府立盲学校舞鶴分校が仮校舎であっても開講して欲しいというのは、戦前、戦後、京都北部のろうあ者が学ぶ機会を保障されなかった。
戦後になっても義務教育すら受けられなかった京都北部のろうあ者は、いのちをかけてと言っていいほどの運動をした。
結果的には仮校舎。盲学校とろう学校の分校といっても同じ敷地の同じ学ぶ舎。
インクルージョンとか言われる今日それはそれで意義深いとされるかもしれないが、内実は真逆の矛盾に満ちたものであった。
それは、盲唖教育という時代に学んだろうあ者から伝承されていた。
でもしかし、
「私たちは、『われわれは勉強しなければならない』と肝に銘じている」と京都府への陳情が繰り返されて、同じ敷地の同じ学ぶ舎であってもともにそれを認め合って、勉強しようではないか、と胸に刻んだという。
だからこそこの小さな学校は、学び尽くせない教育を提示し、結実させていく。