手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
「事実を知りたい、真実を知りたい、人間として。ろうあ、という障害があっても、みんなの力の中で育ち合ってゆくためには、学ばなければ、ということを知り「われわれは学ばなければならない」というろうあ者の必死の運動と請願運動が戦後すぐ行われた。
校舎改築とひきかえに
聾分校中学部の廃止生徒たちは
100km~200㎞離れた本校へ
その運動が実って1952(昭和27)年京都府立盲学校舞鶴分校と京都府立聾学校舞鶴分校が同一敷地内につくられるようになる。
その喜びを込めて北部のろうあ協会の人々は。舞鶴盲聾分校と呼んだ。
この時のろうあ者の喜びは計り知れないもので、もちろん、盲人の人々も同様であった。
ところが、1981(昭和56)年を前後して、この京都府立舞鶴盲聾分校の廃止の動きが強まる。
その第一波が、京都府立聾学校舞鶴分校の中学部の廃止であった。
この時、分校の保護者や教職員はもちろん、ろうあ協会も大反対の運動を展開した。
京都府立舞鶴盲聾分校は1952(昭和27)年の設立から「風がふけば窓が落ち、雨漏りのする危険極まりのない老朽校舎」になってしまっていた。
父母をはじめ多くの先生方で「分校校舎改築推進委員会」が結成され、新校舎の建設にむけ陳情や請願などさまざまな運動が15年以上もねばり強くすすめられ、その間校舎の全面改築の請願が京都府議会で承認されてきた。
分校校舎改築推進委員会の結成、その運動は障害児教育の一層の充実をねがう、京都北部をはじめ、広範な京都府民の共感を呼んだ結果だった。
京都府教育委員会は、校舎改築とひきかえに聾分校中学部の廃止(100km~200㎞離れた本校への統合)を打ちだし、父母・先生たち、地域の多くの人々たちや地元府会議員の強い反対を押しぎって中学部廃止決定を強行した。
せめて義務教育までは地元で
「せめて義務教育までは地元で」「障害児を地域の主人公として、中学部存続をの運動は絶えることなく長く続けられた。
その頃、京都府ろうあ協会の大矢さんが集会に集まった多くの人々にこころから訴えた記録が残っている。
長くなるがその一部を分割して掲載する。