手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

聞こえる人 と共に暮らしてゆける地域にしなければ と崇高な願いを籠めて

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手話を知らない人も

                 手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 「京都北部にろう学校を」と遠く離れた一軒一軒の門口に立って署名用紙を見せる間もなく聞こえないとわかっただ塩をふりかけられ、追っぱらわれるということも再三。

 

 それにもくじけず、ついに地域の民主主義の結晶としての500人もの署名をあつめ、さらに、当時の京都府議会、舞鶴市議会にも働きかけるなど、精力的に活動を展開したのです。

 

 あわせて、自ら私塾「舞鶴ろうあ塾」を開設するなど、足かけ4年の寝食を忘れた闘いは、ついに1952(昭和27)年6月、自らの力で自らの学び舎を生み出したのでした。

 

この町に学校を作らなければろうあ者は
   人間として暮らしていくことは出来ない

 

 分校の誕生。

 

 それは直接的には、北部における障害児の教育権、学校権の保障を意味します。

 

 しかし、この運動にかけずりまわった先輩は、しみじみと語っています。

 

「私は、勉強するために、生まれ育ったふるさとから出なければならなかった。30歳になって、舞鶴に帰ってきた。

 舞丹ろうあ協会を作ろうと活動をはじめた。

 そしたら150人もの聞こえない子供や、私と同じくらいの聞こえない人々が勉強もできないまま放ったらかしにされている。

 この町に学校を作らなければ、ろうあ者は、この舞鶴で、丹後で人間として暮らして
いくことは出来ない」