手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
さて、私(注 大矢さん 当時京都府ろうあ協会役員)が生まれ育ったのは、牛がのろのろとうんこをしながら、その後に追いついたオンボロバスが、これも道の狭さに追いこせず、とうとうエンコしてしまう。そんなのどかな田舎でした。
よく遊びました。
鬼ごっこ、かくれんぼ、メンコにビー玉、石けりにカンけり、チャンバラごっこに探検ごっこ……。近所の子供たちにかこまれて楽しかったあの遠い日々が、今でもかすかに思い出されます。
先生も友だちも
そして私自身耳がおかしい
ところが小学3年生の終わり頃、先生が言ったのと違うページを読んでは皆に笑われる。
あてられもしないのに立ちあがる。
またドッーと友達が笑う。
先生も友だちも、そして私自身耳がおかしいと思い、母に連れられて病院へ行くことに
なります。
一歩一歩地獄の奈落に
つき落とされてゆく日々
医者は
「扁桃腺のところを切れば、もとのようによく聞こえますよ」
と言ったそうです。
近代的な手術室もない普通の外来診察室の椅子に手足をしばられ目かくしされた格好は、電気椅子にすわらされた心地でした。
それから、のどに赤チンを一杯つけてのどをしびれさせての手術。
1時間程も続いたでしょうか、ひたすら耐えて、1日入院して帰宅。
けれど、やはり先生の話も友達の話も、はっきりききわけられず、それどころか日に日に聞きにくくなる一方でした。
それは、かつて悪ガキどもにかこまれて得意の絶頂になって遊びまわっていた私が一歩一歩地獄の奈落につき落とされてゆく日々でもありました。
何が地獄だったでしょうか。
学校は君一人のために
あるのではありません
少しは静かにしていなさい
テストの答案が10点、20点でつき返されてくる事。
そんな事は先生の授業が聞こえないからとひらき直ることで気持をごまかすことができます。
かつて遊びまわった友達と話し一つ出来なくなった事。
これも一人本を読むことで、どうにか心なぐさめられます。
しかし、登校途中の私の役目。
それはカバン持ち。
学校につけばカバンの中の点検。検便の日、マッチ箱をぶらさげて行くのが私の役目。
こういう自分の姿ほど、つらかったことはありません。
先生からも
「キョロキョロガサガサやめなさい、君は聞こえないから先生の話がわからないのは、わかっている。しかし学校は君一人のためにあるのではありません、少しは静かにしていなさい」
と言われるにおよんで、私は生きていることすら苦痛でなりませんでした。
障害児教育とか、障害者問題とか、そんな言語も私の住んでいるところでは交されることがありません。