手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
ろうあ者の人が、「うなずく」ことは、「理解した」「了解」「解った」ということでないという教えは、その通りだった。
だが、しばしばトラブルを引き起こした。
つい、うなずいてしまう
手話通訳をしていると
「本人がうなづいているのに、そのあと違うことを言ってくるとは。手話通訳の、あんたが違う手話をしたんだろう」
「わかったといっているのに、なにをいまさらなにを言うのか」
と聞こえる人が怒鳴り、話を撥ね付けられることがあまりにも多すぎた。
それを、見ていたろうあ者から後で
「ごめん、ごめん、迷惑かけて」
「つい、うなずいてしまう。」
「手話通訳がわかるという事なんだけれど」
と謝られる。
「かまへん、かまへん(京都の手話表現で)しんぱいせんと、言いたいことは言わんとなぁ、そのため手話通訳しているから」
と何度も言ったけれどろうあ者の人々は、恐縮していた。
なんでも「はい、はい、」と言うように「躾け」られていた結果だろうか。
手話通訳になれてきたろうあ者の人々は、次第にうなずくことはなくなって行った。
このことは、ろうあ者の人々の暮らしには、大きな一歩だったのではないだろうか。