手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
京都ろうあセンターを考える時、現在の京都聴覚言語センターなどを基にして考える人が多いが、それは結果を見て過程を十分吟味しない事でもある。
また、 京都ろうあセンター、京都聴覚言語センターが造られる以前のろうあ者の人々の血と涙の叫びと行動を安易に考えて行く事にもなる。
はてしなく長い助走と
それを挫く動き
京都ろうあセンター、京都聴覚言語センターが造られるまでよりも助走の方がはるかに長く、複雑である。
その複雑な状況を一貫して打ち破ってきたろうあ者の人々やろうあ協会の歴史に賞賛の辞を捧げる。
1968年から1969年にかけて京都ろうあセンター設立時に繰り返し教えられた事がある。
第二教室の悲劇を繰り返してはならない
それは京都ろうあセンターが第二教室の悲劇を繰り返してはならないと言うことである。
故平松藤二郎さん(1947年京都ろうあ協会初代会長)、故明石欣造さん(1954年京都ろうあ協会三代目会長、1956年社団法人京都府ろうあ協会初代会長)からの切なる伝言でもあった。
第二教室問題とは何か、を複雑で縺れている歴史と問題を簡略的に説明しておきたい。
私立京都聾口話学園がつくられるが
1929(昭和4年)を前後して聴覚障害の子どもたちに、なんとか口話法による教育をすすめて欲しいという親の要求でそれまでの経過を踏まえて妙覚寺境内に新校舎が建築され私立京都聾口話学園がつくられる。
私立京都聾口話学園の経営はすぐ困難に
だがその親のねがいと裏腹に私立京都聾口話学園の経営はすぐ困難を極め学園がつくられてすぐに京都府立聾唖学校に「移管」せざるを得なくなる。
そして、私立京都聾口話学園校舎は京都府聾唖学校の分教場、すなわち「第二教室」とされて使われる。
戦中は、これらも教室も閉鎖され、学校工場として学徒動員たちが働く場所に変更される。
戦後の1946(昭和21)年に終戦とともに教室として復元され、京都府下の生徒のための臨時寄宿舎とも使用されるが、1954(昭和29)年第二教室としての役目は終えたとされたが、ここから大きな問題が産まれ紛糾が生じる。