手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者福祉の歴史を変える運命の分岐点 京都ろうあセンターはなぜつくられたのか⑫

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手話を知らない人も

      手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介

 

  1967(昭和42)年2月を前後して、京都市の職員と京都府の職員が同じ場所での福祉関係行政者の集まりに出張する車中。京都市の職員から、京都ライトハウスが旧交通局病院に移転される動きが検討されている事が話された。

 

 その時の京都府職員は、京都で数少ないベテラン手話通訳者だった。しかも、ろうあ協会の苦渋の思いの「第二教室」問題も熟知していた。

 

京都のろうあ者福祉の運命の分岐点

 

 京都ライトハウスの移転。

 

 その跡地をろうあ者福祉の事業所として使わしてもらえないだろうか、京都のろうあ者福祉の運命の分岐点だった。

 

 しかし、いくら市長といえども公正な行政が求められる。

 

 だが、富井清市長は眼科医として盲人福祉に寄与していただけでなく、自らもろうあ者福祉を熟考せざるを得ない立場であった事を京都で数少ないベテラン手話通訳者は知っていた。

 

 市長に働きかければ、ろうあ者福祉充実が図られるという千載一遇のチャンス。

 

 この機会を逃せば、いつろうあ者福祉の充実が図られるか解らない。

 

 ろうあ者やろうあ協会のみんなは喜びとともに希望に燃えた。

 

現実を無視して抽象的・空想的に考え
   「みえる障害」「みえない障害」

 

 だが、ライトハウスは盲人協会の人々の血の結晶。

 

 それを安易に借り受ける事は道義的にも許されない事である事も解っていた。

 

 苦渋の中へ。

 

  ろうあ協会と盲人協会は、話し合いをすすめた。

 

 戦前、盲唖院として、同じ学校で学んだから協力と理解は容易であるとするのは大いなる間違いである。

 

  盲とろうという関係は、コミュニケーションがとりづらく多くの食い違いや意見の対立があった。歴史的に見ても盲人福祉とろうあ者福祉は異なった対応がされてきた。

 

 障害者だから障害のことは理解出来る、と決めつけるのは容易であるがそれは「頭の中の考え」だけで現実は異なっていた。

 

 よく、「みえる障害」「みえない障害」などと平気で言ったり書いたりする人々がいる。

 

それは障害者の現実を見もしないで、現実を無視して抽象的・空想的に考えにすぎない。

 

 それぞれの課題はそれぞれにあるが、集い・団体を形成すると意見の相違は千以上ある。

 

それまでの

 ろうあ者福祉の歴史を変える分岐点

 

 それをまとめあげて意見の一致を創り出した盲人協会とろうあ協会の取り組みは、賛美しすぎる事はない。

 

 行政の援助もあったが、ろうあ協会は、移転する京都ライトハウスの使用の理解を盲人協会から得る事が出来たのである。

 

 これは、それまでのろうあ者福祉の歴史を変える分岐点であった。