手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
京都ろう学校には学校以外で
手話通訳をしていた教師は5人以上いた
京都ろう学校の授業拒否事件は語り継がれても、生徒たちが問題を提起した高等部の生徒たちを正面から支持して援助したのは、ろう学校高等部の教師ではない。
当時、京都ろう学校には学校以外で手話通訳をしていた教師は、5人以上いた。
その中で、京都ろう学校中学部の教師たちが高等部の生徒たちを理解し、支持して態度表明と行動をした。
そればかりか, 高等部の生徒たちを京都の公立・私立の高等学校の生徒の交流の機会のため尽力した。
そのため中学部の教師たちは、屈辱的攻撃を受けた。
だが、高等部の生徒たちの主張と行動の正しさを支持し続けたという事実は、京都の中で語り継がれていない。
思い込みと現実と教師のあり方
事態が終息して、数年後、数十年後、京都ろう学校の教師が京都ろう学校の授業拒否事件を語り出した。
そのため京都はもちろん全国的に京都ろう学校の授業拒否事件では、高等部の先生たちがコミュニケーションの援助をしたと思い込まれるような事になっている。
そのことを、中学部の教師たちはほとんど知らなかったし、後々知っても、ああ、そう、となり、中学部の教師たちの受けた手ひどい屈辱を述べて自分たちの姿を浮き彫りになるようなことはしなかった。
生徒たちの努力こそが
讃えられるべきという謙虚さ
教師として、当然の事をしたのであって、生徒たちの努力こそが讃えられるべき、とも言う。
当然と言えば当然であるが、あまりにも謙虚でないと思われる事かもしれないが、自己中心や自己評価の高い教師はそのことを知った上であたかも自分がしたかのように、自分が援助したかのように言い、多くの人からの感銘を受け自己陶酔に酔いしれていた。
個人の教師の勇壮なエピーソードだけで
成り立つものではない教育
教育は、個人の教師のある勇壮なエピーソードだけで成り立つものではなく、教師相互の協力も大きな要素を占める、と京都ろう学校の授業拒否事件は教えてくれる。
同時に、ろう教育はもちろん、教育の普遍的原理まで学べる事が出来るのだが、それが京都ろう学校で充分実を結ぶ時期はなかなか来なかった、
京都と大阪の境に洞ヶ峠が今も残っている。
この場所は、洞ヶ峠を決め込む、ということわざにもなっており1969年頃にはしばしば手話で表現された。
洞ヶ峠を決め込む教師でなく、ろう学校教師の勇気と見通しのある取り組みがもっと広がっていたら、と思うがそれを伝承する動きが現在の京都ろう学校に産まれて来つつあるようである。