手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
人間の歴史を遡ると身振りは文字以前やはなしことば以前に重要なコミュニケーションとして、異民族同士のコミュニケーションを可能にした。
手まね、もその流れにも合ったとも言えるのではないだろうか。
安い、と、易い、見易い時
見る・安いと同じ手まね
第一回全国手話通訳者で貞広邦彦氏は、手まねと身振りの違いを述べるが、よく読んでみると、一般のろうあ者の手まねは言葉の手助けの手段である、手まねと身振りとの関係で言葉の機能を果している、と説明する。
ろうあ者の手まねを見ると意味に合った手話で言葉そのまま手まねに置き変えて自分の意志や意見を述べているのと違っている、例えば、安い、と、易い、見易い時、見る・安いと同じ手まねで、言葉通りに手話してしまう。
文字上の表現と
手話・手まねの違いを述べようとするが
しかし、貞広邦彦氏は、安いと易いを「同じ手まねで、言葉通りに手話」で表現する手まねに疑問を提起する。この点では、未分化の提起だと考える。
なぜなら、安いと易いという手まねは、提起された当時から分化された表現があったし、安いと易いは意味合い的に同じ意味を持っていた。
文字上の表現と手話・手まねの違いを述べようとするがそこには少なくない分析不足がある。
音読の場合
通常「、」、「。」、「」は、省く
さらに、文章の中で、手まねを作りなおさなければならないと思う、文章の中で「、」、「。」、「」も文章通りに出した方がいい。
としているが、これは非常に疑問である。
日本語会話では、文章の中の「、」、「。」、「」も時異様な意味を持つものの文章の通りに言い表せられることはない。
このことは、後に栃木ろう学校の田上氏が「同時法」で同じように述べていくが、人は話し言葉を聞き大脳の中で言語処理をする機能を持ち合わせている。
音読の場合、通常「、」、「。」、「」は、省いて文章の意味が伝達する、出来るのが通例である。
そのように考えるならば、「同じ手まねで、言葉通りに手話」は、異質なものを並列の置いて比較するという誤りをおこししていると言える。