手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
六項目の第五回全国手話通訳者会議の議決
一、 通訳活動の実践を通じてろうあ者問題の認識を深めそれをより多くの人々に広めます。
「手話技巧」だけに依存していては
手話通訳しているとは言えない
手話通訳活動の実践を通じてろうあ者問題の認識を深めそれをより多くの人々に広めるということは、手話の動きや手指の動きなどの「手話技巧」だけに依存していては、手話通訳とは言えないという手話通訳のあり方を示唆したものとしても考えておかなければならないだろう。
同時に、「より多くの人々に広め」ということは、手話通訳で知り得たことをあからさまに広めることでは決してない。
近年、あの人は手話が「上手」だとか、ろうあ者のことを「よく知っている」などのことがしばしば耳にする。
どのようなことを言うのか
手話が上手であると
だが、手話が上手であるとはどのようなことを言うのだろうか、
見て、きれい、ギクシャクしていない、スマートな表現などなどを「上手」というのだろうか。
知りうる限りで手話が上手と言われている人の手話を見ていると「技巧の極致」に酔いしれて「自己陶酔」しているような人が多いように思えてならないのである。
手話を学ぶ人は、その手話が上手だと言われている人の手話を見とれて、その人がどういう話を手話通訳しているかを見て、考えているようには思えないことがある。
手話通訳で一番肝心なこと
手話通訳で一番肝心なのは、伝える相手と伝えて欲しい相手のコミュニケーションを成立することである。このことが忘れられてはいないだろうか。
1972年の第5回全国手話通訳者会議でも手話の技巧に拘りすぎて、肝心なコミュニケーションを捨て去ろうとする人々がいたが、そのことへの指摘と意見が出されて、我に返る人が居た。
ろうあ者問題の認識を深め、とはろうあ者の人々の生活や暮らしの実態などなどを抜きに「空理空論に近い手話」でもって手話通訳を行ったと考えてはならないという意味合いが籠められていた。
単純化することはやさしいが
問題意識を持って
物事を深く考えることには際限がない
絶えず、学び、問題意識を持って物事を深く考えることが、手話通訳者にとっても必須条件なのではないかと考えられてそのひとつの反映が「通訳活動の実践を通じてろうあ者問題の認識を深めそれをより多くの人々に広めます。」と理解している。
絶えず、学び、問題意識を持って物事を深く考えることには際限がないが故に困難で苦しい問題もある。
その一例を、例外かもしれないが述べておきたい。