手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ児が学んだ最初の学校は 丹後國宮津天橋義塾同社・盲唖院 第5回全国手話通訳者会議1972年

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手話を知らない人も

    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

  ほとんど知られていないろう教育の歴史

 

 京都の人々でもほとんど知られていないろう教育の歴史がある。

 

 これらの事は、今後の歴史解明で明らかにされていくことを期待して少しだけ述べておく。

 

 京都のろう教育・聴覚障害者教育は、1873年(明治6)頃、3人の聾児の教育を待賢校で行われたとされている。

 

 そして本格的には、1878年(明治11)日本最初盲唖院がひらかれたとされている。

 

  丹後國宮津天橋義塾同社の
    ろうあ児を受け入れてともに学んだ教育

 

 だが、1875(明治8)年に丹後國宮津天橋義塾同社(現在の宮津小学校に記念碑)が11歳の聾唖児を受け入れその発語指導などを試みていること。

 

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 その時の教科書が与謝の海養護学校設立当時の保護者の家で見つかり今検討されていることはほとんど知られていない。

 

 丹後國宮津天橋義塾同社は聞こえる人とともにろう児が学び、難解な教科書を読むためにろう児に特別な方法で教えた記録も残っている。

 

すべて人々の協力で
同じ教育が受けるように努力
 公・官は何もしなかった

 

 丹後國宮津天橋義塾同社の教育は、今日さかんに言われているインクルーシブな教育の先駆けと考える人がいるかもしれない。

 

 だがしかし、ろう児の教育は江戸時代の寺子屋でもそれ以前の民間教育のなかで取り組まれている。

 

  注目すべきは、すべて人々の協力で同じ教育が受けるように努力されていることである、

 

 公・官が率先してろう児の教育をすすめたのではないことに注視して、時代考証を前提に多くの人々がろう児の教育のためにさまざまな努力をしていたこととしてヒューマニズムを学べる手話研修なり手話学習をすすめてほしいものである。

 

 手話を単純に断定的に述べるのはやさしい、だがそこには人々の努力と知恵とコミュニケーションを捨て去っていることを知るべきだろう。