手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
残念なことは、今日これらの手話や手話通訳に関する歴史的重要な資料を、読み考える人々が極めて少ないのが現実である。
手話の方法論や、動画だけに、手話を追い求め、それで事足りたとされていないだろうか。
手話表現も、これはこうだから、こうするのが正しいということがまかり通っていて驚くことがある。
京都の手話に関してもそうである。
京都の手話、と動画で表現されているの見たこともないような手話で驚きを通してあきれるしかない。
これでは、歴史的に形成されてきた手話の基礎を踏まえた時代に相応した手話が発展していくことにならないのではないかとも思える。
過去の創造を無視して
創られた手話の真実は真実とは言えない
過去に創造されてきたものを全く無視、また調べようとしないで、まるで、それが真実かのように、述べられている現状は、嘆くよりも、真理を追求する姿勢がないと考えていいのではないだろうか。
全国手話研修センターのホームページにある
一般財団法人全日本ろうあ連盟、一般社団法人全国手話通訳問題研究会、一般社団法人日本手話通訳士協会の3 団体は、新たな手話通訳制度を確立するため、1985(昭和60)年「アイラブコミュニケーション」パンフレット120 万部普及運動に取り組みました‥‥‥は、まったく事実ではなく、時間的事実さえも踏まえないでたらめなものであることを全国手話研修センターに数度も連絡し、その間違いを改める、という連絡を受けた。
だが、2019年5月14日段階でも改められてはいない。
なにを研修しているのか
手話を学ぶ、教える、広める
基本的条件と基礎的知識が欠如して
これでは、全国手話研修センターが手話研修のセンターとしてなにを研修しているのか、とさえ疑問を抱いても当然のことであろう。
非常に厳しい言い方をすれば、手話を学ぶ、教える、広める基本的条件と基礎的知識があまりにも欠如しているのではないかと、とう提起しておきたい。
近年手話は、このようにすべきだとか、これは間違いだとか、これを正しいとか、言われたり、書かれたり、動画で示されている状況を見ると、歴史的経緯を全く無視していると、言わざるえない。
それどころか、その時々で思いついたことを言い続けたり、書き殴っているに過ぎないと、さえ思える事が多い。
このことについて手厳しいと言う人がいるかもしれないが、ろうあ者が、長年願っていた問題を軽視し、創造されてきた手話を放置する傾向を否定、無視する事は出来ない。
なぜなら、創造されてきた手話には、ろうあ者の哀しみの歴史とねがいともに、それを乗り越えていく、知恵と力が豊富に籠められているからである。