手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
全国手話通訳問題研究会結成の思いと行動
全国手話通訳問題研究会結成当時の
初代全国手話通訳問題研究会事務局長
谷勇男氏へインタビュー
コミュニケーションの自由で
多様な方法が「制限」
ーー昔は、学校にも行けないし読み書き出来ないろうあ者は多かった。
今は、読み書き出来たり、パソコンでやりとり出来るようになったいる。
だからそういうことと手話を組み合わせて自由にコミュニケーションとってもいいと思われますが。
そのことについては、全日本ろうあ連盟の方針があるのではないですか。
手話の言語化とかあって、フレキシブルに考えない。
手話がなぜ出来たのか、を考えれば、おのずと自由にコミュニケーションをする、ということが解るはずだと思いますが。
記号化されたものを言語とする考え
言語とは何かを明らかにしないで、ひとつには記号化できる、されたもの、であるという考えが頑なにある。
しかし、もうひとつには、手話はそれぞれの地域でさまざまな表し方があって、発音の違いや身振りがある。
さまざまな表し方を肯定しない。
表記出来ない仕種や音声言語だけではなくいわゆる非音声言語などいろいろなものを含めて考えることがある。
手話を記号化出来るかどうかが左右
今の時代は、記号化出来にくいもの、出来るもの、が左右されている。
パソコンが中心になっているからでは。
ろうあ者が手拍子とる
はずがないとかの決めつけ
伝統引き継がれてきた手話を伝承しない
ーー京都の「嵐山」の手話は、八重桜を表しているとネット上に動画で出ている。
嵐山は八重桜の名所でない。嵐山で昔からろうあ者は花見に行って踊ったり、手を叩いて手拍子をとった(嵐山)のにまったく根拠もないデタラメなことがネット上で広められたりしていますね。それを安易に信じこみ広める人も。
ろうあ者が手拍子とるはずがないとか、そのような考えで、つくった手話が多いのでは。
伝統とか、引き継がれてきたものを伝承した形で発展させたものではない。