手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承
京都ろう学校生徒の「授業拒否事件」を全面的に支持し行動した故藤井進先生らは、京都ろう学校の教師の対立を激化させることになってしまう。
生徒の見方をして教師批判を受け入れるのか、など故藤井先生らへの感情的批判は陰に陽に強まり、京都ろう学校の教師が一堂に集まる機会は激減した。
顔も見たくない、と言う動きも出てきて同一敷地内のろう学校で1年間一度も顔を合わせることがないようにする教師もいた。
教師として当たり前のことをしたまで、と
言い切る深い想い
教師として当たり前のことをしたまで、と京都ろう学校「授業拒否事件」の教師としての自分自身を振り返り、言い切る故藤井進先生の想いは深い。
その想いを振り返ってみる。
憲法や教育基本法にうたわれている
教育の機会均等の理念の空洞の具体化
文部科学省は、1947(昭和23年3月31日)の学校教育法制定以降、戦後の特殊教育諸学校の義務制実施を憲法や教育基本法にうたわれている教育の機会均等の理念の具体化の一つとしている。
この憲法や教育基本法にうたわれている教育の機会均等の理念の具体化という背景には重大な問題があった。
なぜなら教育の機会均等の理念の具体化の「具体化」が放置されたままだったからである。
それは、文部省の特殊教育諸学校に対する軽視、いや否定的な傾向があったことは事実として思考していかなければならないだろう。
1948( 昭和23)年度に学齢に達した盲児・聾児について、盲学校、聾学校への就学を義務づけ以後学年進行で就学義務の学年を進めていくという盲・聾学校の義務化がなされたとしている。
この盲・聾学校の義務化の学年進行中に青年教師として故藤井進先生(以下 藤井進先生)がろう学校に採用された。
教員採用時のろう学校校長の質問
「子ども好きか」
1952(昭和27)年、藤井進先生は大学卒業後京都府教育委員会の採用試験に合格して、学校長の面接を受ける。
その時、面接をした校長はろう学校の校長であったが藤井進先生はそのことをまったく知らなかった。
彼のろう教育に関わる切っ掛けとして今だ新しい記憶であるとして以下のようなことが伝えられた。67年も前の出来事である。
話によると、
‥‥‥ ろう学校の校長に
「子ども好きか」
と聞かれて、
「好きです」
と答えたら
「ほな明日からきてくれ」
と言われて行ったらろう学校やった。
教師二人、寄宿舎寮母一人の三人の採用でした。‥‥‥
ろう学校赴任 すぐにろう学校校長
「手話を覚えて欲しい」
藤井進先生がろう学校に赴任してすぐろう学校長から
‥‥‥「手話を覚えて欲しい」‥‥‥
と言われたと話されている。
その後、藤井進先生は生徒は未就学のろうあ児・ろうあ者との出会いの中で手話を覚え、手話通訳をし、京都市認定手話通訳者の最初の一員となっていく。