手話 と 手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

お金がないからろう学校にやれない 畑作業をする でないと 生きていけない

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

  1951年(昭和26年)からの藤井進先生は、ろう教育に率直に取り組みながら、その教育の範囲をろう学校に留めなかった。

 

 新採教師として、他の教師がやろうともしないで「押しつけられ」た重複学級の教育とその教育内容の創造に取り組む。

 

 ろう学校の教育の合間に何をしたのか、藤井進先生は次のように語った。

 

ろうで重複の子どもが「座敷牢にいる」
 
‥‥‥丹後の網野町(当時)にろうで重複の子どもが「座敷牢にいる」という噂が福祉関係者か、いろいろな話が入ってきて、「それじゃ、様子を見に行くように」と言われて、見に行ったことがありました。

 

 山奥の家に行く
学校に入れるようにするそれは教師の仕事

 

 瑞穂町(当時)山奥に女の子が学校に行かないで居るとか。連絡が来る。

 

 親に会って、学校に入れるようにして来るように、と言われて山奥の家に行くとか。それも教師の仕事でした。

 

朝夕の1回のバスの乗ってたどり着いた家
  家族と一日話し合って  ろう学校へ

 

 園部から国鉄バス(当時)が一日1回か、二回ぐらいしかでていない。

 

 朝、に行って夕方までその家に居らんと帰れないと言うほどのと遠いところでした。

 

 その子は、寄宿舎に入れて ろう学校で学べた。

 

 お母ちゃんが喜んで……そのお母ちゃんと今でも連絡を取り合っています。

 

  「隔絶」されていた
  ろうの子どもたち在宅、不就学。

 

 昔は、ろうの子どもたちは、「隔絶」されていた。

 

 在宅、不就学。

 

 その頃、就学奨励法という法律が出来て、学校の給食費、学用品などなどの援助がされるようになった。

 

 それまでは、法的援助がなかった。

 

生きていく限界の生活
 お金がないからろう学校にやれない

 

 親はお金がないからろう学校にやれない。

 

 畑作業をする労力としてその子らを、でないと生きていけない。
 
 話も、手話も通じない。

 

  初めて教えた言葉は「パン」
   お腹押さえたら「おしっこ」

 

 初めて小学部1年生に入ったその子は、初めて教えた言葉は、「パン」。

 

 「パン」は、給食。

 

 お腹押さえたら「おしっこ」。

 

 これだけは覚える。

 

 教える。

 

 そういう「身振り」を教えてくれたのが、高等部の重複学級で教えていた伊東先生。

 

 その頃、伊東先生だけが、身振り、手振り、手話が出来た。

 

 その後、聴覚障害の西田一先生が、医大中退・他の大学に行き、でろう学校の教師としてやってくる。

 

ろう学校で出会った子どもたちが
 60歳を超えたが
今でもお互いに昔のことは忘れない

 

 その頃教えた子どもらは60歳こえているけれど今でもつきあいがある。

 

 昔のことを忘れない人々で、健聴者のほうが水くさいと思う。

 

 卒業したらさいなら。

 

 京都府聴覚障害協会(昔ろうあ協会と言っていた)の老人部の集まりが毎年新年会としてある。そこで昔教えた子たちと出会う。

 

 いつも呼んでくれはる。

 

 そこで話すことはいつも京都府下のみんなに会えて友達になれたのは、ろう学校があったからや、って言わはる。‥‥‥

 

 藤井進先生は、淡々と語っていた。が、しかし、京都府下を駆け巡り子どもたちがろう学校に通える、学べるようになった経過の信じがたい苦労は笑顔で打ち消していた。

 

 ひとりの子どもがろう学校で学び成長する。

 

 その喜びのほうが、はるかに大きかったからであろう。

 

  健聴者のほうが水くさいと思う、このことばの中にろう学校で学び育ったろうあ者やろうあ協会からの教訓を胸に織り込んでいたように思える。