手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承
死ぬまで手話通訳したこと
京都で一部の人しか知っていない現実
故藤井進先生は、1960年代後半から1970年代まで約9年間京都府教育委員会学校教育課の指導主事をされてきた。
ところが、1970年に入って藤井進先生が京都市長認定手話通訳であったことはほとんど知られていない。
ろう学校の生徒たちから手話を学び、さらに成人ろうあ者から手話を学び続けて手話通訳者として研鑽し、教師として退職後も引き続き活躍された。
いや死ぬまで、手話通訳したことは京都の中でもごくごく一部の人しか知っていない。
藤井進先生は、非常に謙虚に生き続けたから自分は手話通訳が出来るなど口にされたことは一切なかった。
憶測や根拠もなく何の実証もなく
教育行政やろう学校が手話を全面否定
と断定的に主張する京都の人々は
手話通訳者でもあり、その人が京都府教育委員会指導主事として9年間仕事をされてきたのだから、教育行政やろう学校などで手話を公的に否定したということは通らない。
だが、憶測や根拠もなく、何の実証もなく、調べもしようとしないで教育行政やろう学校が手話を全面否定してきたと断定的に主張する手話を学んでいる人々の中で跡を絶たない。
過去の歴史を「自分色に塗り替える」人は、手話を学んでも「自分用のの色眼鏡で手話通訳をしている」と言われてもやむを得ない、といわざるを得ない。
障害児教育指導主事という名称に変更
藤井進先生が京都府教育委員会指導主事になって提案し主として教育行政の中で変えられた一部を羅列的に紹介しておく。
1,殊教育担当の指導主事の名前を、指導主事会議で論議をして、障害児教育指導主事という名称に変えた。
指導主事2人のうち、一人は知恵遅れ教育の担当。藤井進先生は、盲教育、ろう教育、肢体不自由児教育、言語障害教育、病弱児教育などの担当となった。
教育委員会の中に
障害児教育という分野をつくる
2.京都府下の各郡部地域(奥丹・中丹などなどの地域割りがあった。)の研究会に出かけた。
3, 教育委員会で一番言い続けたこと。
高等学校教育や同和教育や僻地教育や女子教育などの教育があったが、障害児教育の柱がなかった。
そのため教育委員会の中で障害児教育という分野をつくった。
すべての人間に目を向けた
教育をすすめるのが教育委員会の仕事
3,他の指導主事は、障害児教育に対してまったく知識や理解がないため、指導主事など教育委員会がすべての人間に目を向けて欲しいと話し続け理解をひろげた。
教育委員会の中に、目の見えない人と聞こえない人との間には、差をつくっていたが、盲・ろうとまとめて考えること自体問題があり。それぞれ違いがある。
生徒たちの個別で独自のねがいや
要求に応える教育を教育行政が保障すべき
障害児教育には、それぞれの生徒や保護者や家族、関係者の要求やねがいがあり、それぞれを大切にすることを基本に全体の教育をすすめていくこと。
例えば、藤井進先生が教師になり、指導主事になった当時でも、盲学校に入学するよりろう学校に入学する子どもたちのほうが少なかった。
ろうあ児のほうがはるかに不就学が多かった。
だから、学校に行けるようにする取り組みをすすめること。
「座敷牢」にいるろうの子どもを噂で聞いて、その家に行って話をしたり、地方の教育委員会と一緒になって、親を説得したりすることを教育委員会が率先して行うよう強く要求したこと。