En solidaridad con Takahiko Mochida comentario 訳 1/12/2019 京都手話通訳問題研究会会長持田隆彦 ねっとわーく京都
持田隆彦は、日本の手話が「表現のうわべだけが統一されて」いて、彼の手話を「そんな古い手話は使わない」と言われると発言している。
このことは、日本の手話の危機と思われる。
なぜなら、「古い手話」に対する「新しい手話」があり、「新しい手話」が「古い手話」を滅亡させていることになるからである。
しかも、「古い手話」と「新しい手話」の区別はないように思える。
手話における主観主義が、それまでの手話を排外しているのではないか。
考えるに、「新しい手話」とは、日本国からの特定団体が諸費用と共に依頼され特定の団体の一部が「確定」したものを指すとのこと。
日本国のバックアップを受けた一部が決めた手話を「新しい手話」とは言えない。
従来から使われていた手話がもともと、日本国のバックアップを受けた一部が決めた手話を変えるならば新旧手話となるはずである。
新手話と旧手話という表現が出来るのだが、極めて曖昧な表現でそれまで使われていた手話を断定的に否定するのは手話の国家統制を認めることになる。
言語の国家統制は、多くの人々への支配と分断と流血を招いてきた歴史。
それを知らない人々が日本では増えてきているということなのだろうか。
戦慄を覚える。
いまは何をするにも制約がある
持田
昔はろうあ者の方と話ができれば良い、集まって一晩中喋っていたら楽しいという感じでしたが、いまはそういうこともありません。
仲間がほしい、友だちがほしい、喋る相手がほしいと集まっていましたからね。
またいろいろな制約も少なかったと思います。
いまは何をするにも制約があります。
問題が起きた時の責任と資格
これも昔の話ですが、いまから49年前に京都で全国婦人集会を開いたときに、男性は保育担当をしようと、子どもたちを植物園に連れて行ったりして一緒に遊んだものです。
これがいまは
「何か問題が生じたときに誰が責任を持つのか」
となっていきます。
子どもと遊ぶのに何の資格が必要なのかと、いまも私は思うのですが…。
資格を持った先生が問題を起こす時代ですから、そういう時代にいまの若い人たちは育ってきています。