手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

京都ろう学校 の3倍以上の生徒が普通校で学んでいた事実と ろう学校高等部 の 職業学科 への固執

   村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

ろう学校高等部の職業学科に
      対する答えは出されていた

 

   「1971年当時の聴覚障害児は、ろう学校在籍生徒の3倍以上が普通校に在籍。公立高等学校・私立高等学校では十数人以上の聴覚障害の生徒が在籍していた。公立高校で聴覚障害の生徒が学ぶのは山城高等学校が初めてではない。だが、制度的に聴覚障害の生徒を受け入れ、聴覚障害の生徒が多数学ぶ、ということは全国初の出来事であったとされている」という文は、注目しておかなければならないだろう。

 

 1971年段階において京都ろう学校高等部より多い十数人の生徒が普通高校で学んでいた事実(1971年以降には高等部生徒の3倍以上になるが。)。

 

 そこに、京都ろう学校高等部の職業学科に対する生徒や生徒の家族らの答えが出されていたと考えても間違いがないだろう。

 

 この時点で、京都ろう学校の高等部の教師たちはその事実をどのように考えていたかが問われる。

 

  高等学校に制度的に受け入れることへの
 異議と京都ろう学校高等部の職業学科充実か

 

 調べてみるとろう学校高等部の教師たちは、同じ京都府立でありながら山城高等学校の聴覚障害の生徒を制度的に受け入れることについての異議と引き続き京都ろう学校高等部の職業学科充実を京都府教育委員会に申し入れていたのである。

 

 頑なに職業学科に固執し、普通学科を受け入れない考えの背景に聴覚障害生徒への「固定的観念」があったとする意見も同感出来る。

 

 京都ろう学校高等部の職業学科への固執は、その後永く続いて後、改変されるが紆余曲折あるようである。

 

  ろう学校の有り様を意見する人びとは、意外にこの事実を踏まえてろう学校の有り様を提示しないで、コミュニケーション手段だけを意見することへの疑問も合わせて提起しておきたい。

 

 

高等学校に難聴学級をつくるかどうか 公立高校では聴覚障害生徒は入学しているが

  

      村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

村上中正氏の1971年試論では、さて、難聴学級から山城高等学校に入窮してきた生徒へ「今までになし得なかった聴覚機能のリハビリテーション《機能訓練とそれにかかわる発達権の保障〉を個々の必要に応じてひきつづきおこなっていかねばならないし、また今まで難聴学級の中では不十分であった発声、発音に対する個別的な系統的指導も併せていく必要がある」とする。

 

 はたして、今まで聴覚障害の生徒を集団的に受け入れた経験の無い山城高等学校で「聴覚障害機能のリハビリテーション」「発声、発音に対する個別的な系統的指導」が可能かどうか。

 

  普通高校の山城高等学校で
 難聴学級をつくることが妥当かどうか

 

 教職員の受けとめ、対応する教師や施設設備の整備などなどの実現が可能であったのかどうか、それが実現したのかどうかなどの記述はない。「試論」が1971年で留まっているからこれもやむを得ないことかも知れないが。

 

 特殊学校でない普通高校である山城高等学校が、難聴学級やろう学校で医科大学耳鼻咽喉科教室などでおこなわれていることを行なうことが妥当であったかどうか、などの問題が生じてくるだろう。
 村上中正氏は、現状の難聴学級や普通教育の中から教訓を学び、大胆な提起を行なったのかも知れない。

 

すでに公立高校で聴覚障害の生徒が学んでいたが
高等学校に難聴学級を設置するか

 

 (1971年当時の聴覚障害児は、ろう学校在籍生徒の3倍以上が普通校に在籍。公立高等学校・私立高等学校では十数人以上の聴覚障害の生徒が在籍していた。

 

 公立高校で聴覚障害の生徒が学ぶのは山城高等学校が初めてではない。だが、制度的に聴覚障害の生徒を受け入れ、聴覚障害の生徒が多数学ぶ、ということは全国初の出来事であったとされている。)

 

 村上中正氏は、当時の高校の問題点を「高等学校の教育は『多様化』による差別と選別を一層つよめつつあり、京都府における一定の積極的なとりくみにもかかわらず、こうした全国的な傾向と影響を、年ごとに強くうけている。」とする。

 

 そのことを留意して高等学校における聴覚障害者の教育を提起する。

 

 この部分は微妙な表現で高等学校に難聴学級を設置することについて以下のように断定する。と書いている。

 

 

 

聴覚障害生徒を順序付け 普通学校 難聴学級 ろう学校で学ぶことで

   村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

  1960年代後半から1970年代にかけて京都でろう教育と難聴教育との間で「陰に陽に対立」が生じていたようである。

 

 そして、普通学校で学ぶ、難聴学級で学ぶ、ろう学校で学ぶことで聴覚障害生徒の評価が順序付けられていたようである。

 

 これらは表面だって表れていないものの、内実は表記出来ないほどの激しい対立と「侮蔑の応答」があったようである。

 村上中正氏は叙述していないが、字間にそれが読みとれる。

 

難聴学級開設当初は、その展望や計画も不十分

 

 村上中正氏の1971年試論で村上中正氏は、執筆した当時の京都市の難聴学級の聞こえの保障について次のように述べている。

 

・難聴学級は、主として耳からのことばのききとりの可能性ー健聴者と共に学習し生活していくうえで音声言語によるコミュニケーションの可能性を一層高め、逐次、普通学級に移行していく任務をもつ。

 

・しかし、難聴学級開設当初は、その展望や計画も不十分であったため、個々の聴力の開きも大きく、この面での発達過程を正しくふんでいない。こうして現在、当時の児童は中学校の卒業期を迎えた。

 

・したがって、高等学校入学後も今までになし得なかった聴覚機能のリハビリテーション《機能訓練とそれにかかわる発達権の保障〉を個々の必要に応じてひきつづきおこなっていかねばならないし、また今まで難聴学級の中では不十分であった発声、発音に対する個別的な系統的指導も併せていく必要がある。

 

生徒の聴力の開きも大きく
 発達過程を正しく踏まえていなかった

 

  難聴学級は、健聴者と共に学習し生活していくうえで音声言語によるコミュニケーションの可能性を高めて、普通学級に入級していく役割を持っていた。

 しかし、個々の(生徒の)聴力の開きも大きく、この面での発達過程を正しく踏まえていなかったため山城高等学校入学後も必要に応じて「聴覚機能のリハビリテーション」をおこなう必要があるとする。

 

 ここで、村上中正氏は固定式の難聴学級を例に挙げ、聴覚障害児が固定式の難聴学級から健聴者ばかりの教室へと「移る」ことを目指しているとする。
 当時、学校教育法等や文部省の要領では、小学校や中学校に特殊学級を置くとされている。

 

 だが、各都道府県・市町村では、その特殊学級の弾力的運用がなされている。

 

聴覚障害児の教育実態に

   合っていなかった文部省の対策

 

 特に聴覚障害の場合は、さまざまな形態がとられていた。

 

 難聴学級に在籍する、難聴学級に在籍しながら校内の普通学級に「通級」する、普通学級で学び、難聴学級に通級しない、地域のある小学校若しくは中学校に難聴学級が置かれていて、特定の曜日に難聴学級に通うが日常的に普通学級に「在籍」している。
 などなどである。以上の形態は特殊学級の制度では認められないものであった。

 

 即ち、制度的に「在籍」数で国庫補助制度が決められていたため「在籍」する学級で恒常的に学習するとされていた。
 このことは、聴覚障害児の教育実態に合っていなかったが、文部省はそれに添った対策を講じていなかったため後々、違法な学級設置、在籍児の水増しなどなどと問題になる。

 

「難聴児集団」がなくなる
  のが教育目標であるのか

 

 村上中正氏の論によれば、難聴学級は、「難聴児集団」が次第に「健聴児集団」に融合されて「難聴児集団」がなくなるのが教育目標であるとなる。
 
 「難聴児集団」がなくなることについての記述がないのは疑問である。
 京都市内の難聴学級が目指していたのが、「難聴児」が普通学級に入級することであったのかも知れないが、このあたりの記述は曖昧である。と書かれている。

 

 

 

聞えない自分たちを産んだ親を恨んだ が 自分の子どもも自分たちを恨むようになるのでは

 村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

村上中正氏の1971年試論の子どもの声が聞きたいという「全聾」とされている親の要求に応える、部分について当時の記録や証言から具体的意味するものを考えてみた。

 

 村上中正氏が、成人した聴覚障害者の人々と数多くの相談、問題解決のために行動していたことは事実のようである。

 

学校教育すら受けたこともなく
 ひたすら働き命を終える生活を過ごして

 

 1960年代以前の聴覚障害者の人々の多くは、学校教育すら受けたこともなくひたすら働き命を終える生活を過ごしていたとされている。

 

 現代社会では、理解しがたい現実も数多くあったようであるが、それらは生き続ける人々へのエールとして記録されていない。従って文に折り重ねられた意味合いから推定するしかない。

 

聞えないという自分を
 産んだ親を恨みぬいてきた

 

 信頼を得ていた村上中正氏に聴覚障害者の少なくない人々は、自分たちと同じ苦しいめに会わないためにぜひ、次の世代に伝えて欲しいと言われたことについては記録がある。

 

 優生保護法の名のもとの断種についても非人道的なこととして絶対許すべきでないとして、多くの人々と論議をしてまとめ、京都府に迫った文も残されている。

 

 その中のひとつに記述されているのが、「全聾」とされている親の要求に応える、にはどうすればいいのかという記述である。

 

 現代では、さまざまに表現されているが、当時の記録ではろうあ者夫婦が、村上中正氏を尋ねてきたと記されている。

 

 ろうあ者夫婦は、聞えないということについて自分を産んだ親を恨みぬいてきた。


  親を恨むことが、「生きがいだった」ことも

 

 恨むことが、「生きがいだった」こともあるかもしれない。

 

 だが、自分たちにも子どもが授かった。子どもを産む前、産むとき、産んでからどれだけ多くの人々の助けを受けたことか。

 

自分たちが親を恨んだように
 自分の子どもも自分たちを恨むようになる

 

 でも、赤ちゃんが授かって、ふと、気がついたことがある。

 

 赤ちゃんは、聞えるらしい。

 

 すると、自分たちが親を恨んだように自分の子どもも自分たちを恨むようになるのではないかと不安で居たたまれない。

 どのようにしたらいいのか。

 

との相談だった。

 

 村上中正氏は、ろうあ者夫婦の聞える子どもがどのように親とともに育ったのか多くの例をあげて説明をした。

 

 すると、ろうあ者夫婦が

「自分たちは聞くことをあきらめていた。」

「ぜひ、自分たちの赤ちゃんの声が聞きたい。聴かせて欲しい。」

と懇願された。

 

赤ちゃんの声が聞きたい

    聴かせて欲しいのねがい

 

 村上中正氏は、そのねがいに応えてあらゆる聴覚機器を使って、赤ちゃんの声をろうあ者夫婦に聞かせようとした。

 

 いろいろ試しても、反応がなかったが京都府立山城高等学校のオーダーメイドの聴覚機器を使って、赤ちゃんの声をろうあ者夫婦に聞かせたところ、ろうあ者夫婦の顔がぱっと明るくなって涙がこぼれたとのこと。

 

 聞こうとすることをあきらめていたが、聞くことの喜びと同時に自分たちのそれまでの人生に新しい活路を見出したようであると記されている。

 

 はなしは、これで終わったわけではない。

 

 が、このことから村上中正氏は聴覚への可能性を無視されてきた障害者にとっても、たとえば「私の息子の声が聞きたい」という要求があり、たとえ歪んだ音ではあってもそれを最大限に増巾して耳に響かせることを保障することによって応えていかねばならないように、さまざまな音響の感知をまで保障していく、ことを説いているように思われる。

 

 

 

 

「全聾」とされている親が 子どもの声が聞きたい 「無理」 とする既存の固定的考えに 聴覚保障 で挑戦する教育

   村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

村上中正氏の1971年試論では、聴覚障害者教育について村上中正氏は、次のような持論を展開する。

 

聞く、聞こえない、聴きたい、聴こえない
  あきらめ 当然 それを否定

 

聴覚障害者の教育保障を考える場合、「聴く」権利ー聴覚保障ー|と発達する権利ー発達保障ー二つの面からとらえねばならない。

 聴覚保障と発達する権利の保障の二側面からの把握を主張するが、それは聞く、聞こえない、聴きたい、聴こえない、が保障されることで人間発達が保障されるとするのであろう。


  聞く、聞こえない、聴きたい、聴こえない、で留まり、諦めたり、逆に聞く、聞こえない、聴きたい、聴こえない、は自明のこと。聞く、聞こえない、聴きたい、聴こえない、をもとめるのは、聴覚障害者にあらず、などを否定していると考えられる。

 

聞こうとする、聴こうとする、その指向性に応える保障

 

 聞こうとする、聴こうとする、その指向性に応える保障が、結果的に全面的に聞こえる、聴えなくても、少しずつ聞こえる、少しでも聴える中に「あきらめない可能性」を創りあげられて行くことを示唆したのであろうか。

 

  聴力検査で測定が出来ない生徒
  語音検査で90%以上の聞き取れる

 

 山城高校聴覚障害教育は、1972年以降年度ごとに「山城高校聴覚障害教育のまとめ・資料」として山城高等学校が発行していた。その中には、聴力検査で測定が出来ない生徒が、語音検査で90%以上の聞き取れている報告がある。

 

 物理音ではなく、ことばの集合体で捉えて聞き取れる生徒もいるという中に聴覚保障の可能性と生徒の発達を見いだすという意味も含まれていたのであろうか。

 

  聴覚保障と発達する権利の保障の二側面からとらえる、教育とはなにか、を示そうとしていたのか、その可能性があることを教育としてさらに具体的に提示しようとしたのか、試論は重要提起をしているようである。
それ故、具体的に次のような問題を投げかける。

 

  子どもの声が聞きたいという
 「全聾」とされている親の要求に応える

 

・聴覚保障は、「全聾」といわれ聴覚への可能性を無視されてきた障害者にとっても、たとえば「私の息子の声が聞きたい」という要求があり、たとえ歪んだ音ではあってもそれを最大限に増巾して耳に響かせることを保障することによって応えていかねばならないように、さまざまな音響の感知をまで保障していくことを意味する。

 

  子どもの声が聞きたい、という「全聾」とされている親の要求に応える。
 それは聴覚機器をフル活用する、聴覚機器をさらに開発することによって、「たとえ歪んだ音ではあっても」耳に響かせることを保障するという教育は、教育の可能性をどこまでも追求したもので、教育に限界はないとする考えに行き着く。と書かれている。

 

耳に響かせる保障の教育は

 こころを響かせる教育への伝承

 

 「全聾」とされている親だから、子どもの声が聞きたいと言っても「無理」であるとする既存の固定的考えを否定して聴覚保障に挑戦する教育であると言える。


  聞こうとする、聴こうとする、その指向性に応える保障から教育を考える展開は意味深い。

 

 聞こうとする、聴こうとする、その指向性を否定する傾向は凌駕されているが、その根柢にあるには聴覚に対する否定ではなかろうか。

 

 聞こうと、聴こうと、それを指向性しても無駄だから他のコミュニケーション手段を置き換えるか、否定した上に別のコミュニケーション手段がもともとあるとする傾向も結局、聞こうとする、聴こうとする、要求を却下しているのではないか。

 

 耳に響かせることを保障するという教育は、こころを響かせる教育への伝承であったのではないか。

 

国際動向もすべての子どもに教育を すべての人々に高校入学を だが批判集中 

     村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

  高校教育制度の改変をめざして

 

村上中正氏の1971年試論では、
 山城高校での聴覚障害者の教育保障、という新しい高校教育制度から高校教育そのものの改変を示唆しているのだが、この部分は充分説明し切れていないように思える。
 村上中正氏の山城高校での教育実践の20日間という月日。教育実践的回答を引き出すのは無理がある。

 それゆえ教育理念先行になるのはやむを得ないことかも知れないが、いくつもの論理の飛躍があり、それを埋められていないのはこの「試論」の範囲で求められない。

 

 高校全入運動
高等学校へ希望者が全員入学できるようにとする

 

 選抜試験。普通科や商業科等、そして全日制と定時個などの差別や選別の矛盾と対しながら、聴覚障害者の教育保障が、「高校生の中に一人の落伍者も出さない」という集団主義と個々の発達保障を統一した真の高校制度をうちたてていくことに結びついたとりくみの中で、高校全入の課題として位置づいてくる。

 

 高校全入の課題、とは1960年代頃から活発に行なわれた「高校入学希望者の全員入学」、いわゆる「高校全入」ということだろう。
 戦後、教育制度改革にともなう新制高等学校へ希望者が全員入学できるようにとする取り組みのことを意味する。

 

国際教育動向と結びついた
「義務教育の延長」としての「高校全入」であったが

 

 現代では、この考えはとうてい理解しがたいことと思われるが、当時の国際的動向動向や高校への進学増加にともなう「義務教育の延長」としての「高校全入」は日本の教育の重大な課題となった時期がある。

 

  すべての人々が高等学校教育を
 そこに障害者教育を考えて

 

 この「高校全入」は、高等学校教師のなかでも受けとめられていた。だが、高校全入の課題の中に障害者教育が位置づけられ、考えられていなかったことへ村上中正氏は警鐘を乱打していたようである。

 

 とくに「就学猶予免除」の名のもとに学校すらいけない「重度障害者教育」の保障は、日本の教育の前提に関わるとして教育保障、学校建設をすすめるべきだとする激しい運動がおこなわれたが、その運動の先頭に村上中正氏の名前がある。

 

  「すべての子どもに教育」を保障する
 そのなかでの高校全員入学

 

 社会的に「このような重度の子どもの教育は出来ない」とされていた中で、京都はその先鞭を付けて「すべての子どもに教育」を保障することが一定程度実現していた。村上中正氏は、この取り組みの中心的人物であったが故に「高校全入」には障害者が当然含まれていると考えていた。

 だが、具体的にどのように教育をすすめるのかの実践的解明がすすんでいない状況に直面しながら、敢えて基本を踏まえて「集団主義と個々の発達保障を統一した真の高校制度をうちたてていくことに結びついたとりくみ」をキーワードとして述べたのではないだろうか。

 多様化に多様化を重ねた今日の高校教育制度からは、理解しがたいことであるが。と書かれている。

 

 

 

聴覚障害者教育と「差別や選別」の教育が「解消」される教育

   村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

村上中正氏の1971年試論では、


山城高等学校での聴覚障害者の教育保障は  聴覚障害者にたいする後期中等教育保障の第一歩として村上中正氏は、「山城高等学校での聴覚障害者の教育保障」は、

 

聴覚障害者にたいする後期中等教育保障の第一歩であり、これを正しく発展させるならば、すべての障害者、ひいてはすべての高校生の教育権·発達権を保障していく前途をもつものである。

 

・原則的におさえ、方向と展望を集団的なとりくみの中で明らかにしていくことは、われわれにとって重要な課題である。

 

山城高校での聴覚障害者の教育保障は、はじまったばかりであるが、障害者、ひいてはすべての高校生の教育権·発達権を保障していく前途をもつとする。

 

 聴覚障害者の教育保障が、なぜ、すべての高校生の教育権·発達権を保障していく、ことになるのか。彼の論拠は、

 

すべての高校生の発達保障をすすめること

高校教育にあった「差別や選別」の教育が

      「解消」されるか

 

・「高等学校の教育は「多様化」による差別と選別を一層つよめつつあり‥‥‥全国的な傾向と影響を、年ごとに強くうけている。

 

・選抜試験。普通科や商業科等、そして全日制と定時個などの差別や選別の矛盾と対しながら、聴覚障害者の教育保障が、「高校生の中に一人の落伍者も出さない」という集団主義と個々の発達保障を統一した真の高校制度をうちたてていくことに結びついたとりくみの中で、高校全入の課題として位置づいてくる。

 

とし、聴覚障害者の教育を高等学校で保障することで、生徒全体的にも生徒個々人にも「一人の落伍者も出さない」発達保障が成立していくことになる、と論理を形成している。

 

 高校教育の「差別や選別」を集団主義と個々の発達保障を統一することで、真の高校教育が出来上がっていくとしている。すべての高校生の発達保障をすすめることにより、それまでの高校教育にあった「差別や選別」の教育が「解消」されていくかのような記述に戸惑いを感じる。と書かれている。

 

  ろう学校や高等学校だけではなく
 すべての人々の教育として

 

 教育や福祉の分野では、ともすれば「あるひとつの事象」をそれが「すべてであり」だから「~しなければならない」とまで局限されることが多い。

 

 あるひとつの事象を全面的な事象として展開することは易しく、受け入れやすいこともあるのだろう。

 

 だが、村上中正氏はこれらの傾向を排除している。

 

 聴覚障害者の教育をろう学校や高等学校だけに留まらず、すべての人々の教育として思考し、位置づける。

 

  「一人の落伍者も出さない」教育とは

 

 「一人の落伍者も出さない」とするのは、全体的視野に立ったものであり、形式的進級で満足してはならないと誡めているようである。

 

 では、「一人の落伍者も出さない」とはどういうことなのか。

 

 それは、村上中正氏以降の京都府立山城高等学校の報告・記録にある「たのしい学校 わかる授業」に代表される教育内容と教育実践ではないだろうか。