手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

みんなで創りあげた コミニケーション 上から押しつけられた コミニケーション 

 

  

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   手話の動きによって「心の中」の

 微妙な動きや人間の内面のが表現される

 

恋愛

 

 恋愛の表現は、今日言われている、ハートの上部部分を示したした。とされて表現されたものでない。

 

 恋愛の手話は、ハートマークが広がる前から表現されていた。

 

 戦前から表現されてきたもので、恋に落ちる、という意味もあると伝承されいる。

 

 男女が恋に落ちて深まり、身も心もひとつになる。

 

      放物線上に左右の「ひとさしゆび」を下方に動かす

 

 そのそれぞれの人差し指が、どのように合わさって、下に「落ちる」のか、その動きで表現される。

 

 その動き、恋愛の深さや、男女の恋愛の程度や、どちらか一方は深く愛し、浅い恋愛、どちらか一方はそれほどでもなく、そこそこであるなどの微妙な表現形態である。

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 この表現形態は、「ひとさしゆび」を放物線上に下方に動かすことにある。

 

 これに対して、「愛する」は、全く異なった表現形態で可愛がると同義語で、双方の気持ちが合致しなくても「愛」があることも手話表現されると伝承されている。 

 

 「愛する」は、手の平に円を描きながらその動きで愛の深さや程度を示すのである。

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 ここでは絵柄がないが、会わせた手のひらの一方を返すことで、裏切り、心変わりなどを表すことがある。

 

 右手・左手のどちらかを裏返すと、どちらか一方の裏切り、心変わり、となる。

 

 上達者になると、左右の手のひらを裏返すことで、双方の裏切り、お互いさま、となる。このような手話表現を操るろうあ者は、時には恋愛豊富、遊び人、などと思われたりするなどなど、恋をめぐる手話表現は多彩すぎて書き切れないほどある。

 

 人間愛に満ちた手話を知る上でもこの恋愛の手話は、ろうあ者が生きてきた希望と願いと現実を教えてくれるとも言える。

 

 以上の動きは、その動き、速度、方向、左右等々によって「心の中」の極めて微妙な動き、人間の内面の心情が表現される。

 

 片思い、両思い、深い愛、愛し合う、両方が愛し合うと多様に表現出来るのである。

 

     「ひとつの手話」は、多義性と多表現がある

 

 これらは「音声言語」にも置き換えられるがゆえんに「ひとつの手話」は、決してひとつの意味だけを現しているのではない。

 

 多義性と多表現があるのである。

 

 「ひとつ手話」を見ても数え切れない意味と表現があるのが手話の特徴であり、手話の魅力である。

 

 これがろうあ者が創りあげてきた「コミニケーション」であり「文化」なのである。

 

  多義と多様性と変化する、変化させることで異なった表現や微細な表現が出来る、このことは忘れてはならないことである。

 

   単純な考えだけで手話を押し込もうとすることの克服

 

 手話を型にはめたり、単純に考える人は、この変化について行けない。

 

だから、自分たちの枠組みや単純な考えに手話を押し込もうとし、ろうあ者が生活の中で創り上げて来た創造的な知恵をいとも簡単に切り捨てる。

 

     言語標記におけるfuzzy

      人間の会話のfuzzyはことばの源泉

 

 会話は、ひとつひとつの「ことば」で成り立っているが、それは相互に結びつき、その結びつきの流れの中で成立するし、健聴者の音声言語も同様である。

 

 音声による会話も、ひとつひとつの単語や語彙を確かめながらすすめられるものではないだろう。

 

 聞き、話の流れで聞く。

 音声による会話も一語一語の意味を確かめているわけではない。

 

 よくあることだが、音声で話されたことを文字化すると話の内容が全く掴めないことがしばしばある。

 

 主語や述語どうり話しているわけではないので、音声による会話を突き詰めてみると会話をしている人の間に多くの認識、聞き違い、など「ファジ-【fuzzy】な部分」があることがわかる。

 

   不確かさを相互に認識し

 確認するために充分に時間をかけた会話が必要

 

 それは、音声による会話は、「音声の流れ」と、「対面交流」によってすすめられるからであり、それが自然な人間の会話なのである。

 

 音声による会話をする人間は、音声のみだけで、コミュニケーションしているわけではない。

 

 曖昧さ、不確かさなどと織り交ぜながら音声による会話は、伝達され、成立しているがゆえに、不確かさを相互に認識し、確認するために充分に時間をかけた会話が必要なのである。

 

 また確認できた、もしくは確認できる課程を文字として認識を定着させる。(口承という手段はあるが)

 

 そうすることによって、人間は、曖昧さ、不確かさがあればそれに気づき共通の認識・理解を広げるのである。

 

      手話の成立と形成過程を充分尊重

 

 手話もそのように同じ道筋を通って成立しながら洗練されてきたのである。

 

 その成立と形成過程を充分尊重しない傾向は、ろうあ者が創りあげた手話を否定・破壊してしまうことにもなると敢えて言わざるを得ない時代になっている。

 

 長い時間をかけて、数えきれないろうあ者の人々によって、手話は育み、育てられてきた。

 

 しばしば人間性を否定・踏みにじる

 上から押しつけられるコミニケーション

 

 手話が無視、軽視されたからが多義性を持ち、それが複雑に組み合わせられることによって無限の表現形態が獲得されてきた。

 

 自由で創造的で、洗練の極致に達した手話が生み出されてきた。

 

 このことの歴史遺産として伝承されなければならない。

 

 コミュニケーションが上から強要されると、その模倣にすべてが「嵌め込まれる」。

 

 そして、手話か、口話か、という論争は、手話や口話だけを語り、ろうあ者の人間性を認めない考え方にも行きついたりしている。

 

 近年、手話を教える人々の多くは、手話を正しい、間違い、という二局面だけで評価する。

 そして、手話を形通りのマニュアル化したものだけだ、と捉える傾向が強まっている。

 

 肝腎なものが、どんどんと打ち消されて、ろうあ者が創りあげてきた多彩で微妙で、あらゆる人生を呑み込んだ手話表現が消えさせられようとしている。

 

 だが、1950年代、1960年代、1970年代の京都の手話通訳者は、決してこのような立場をとらなかった。

 

 ろうあ者が創りあげた手話表現を解体し、消し去ることは、ろうあ者の人生や生き方まで消し去ることになるからである。