手話通訳保障の要求と根拠
ろうあ者は初期 どのような手話通訳保障の要求を出したのか
現代、ろうあ者は初期どのような手話通訳保障の要求を出したのか、を明らかにすることは、ろうあ者の手話通訳要求の基礎を知る上で大切なものになっている。
戦前はともかく1960年代になるとろうあ協会から「福祉事務所に手話の出来る職員を」という要求を出すようになる。
福祉事務所に手話の出来る職員を、要求の背景
京都でも「福祉事務所に手話の出来る職員を」と言う要求が出されていたもののその一方で「手話通訳者の配置」が要求されていた。
その背景には、ろうあ者のさまざまな生活要求や意見がコミュニケーシュンで「圧殺」されていた現状に対する最低限の要求として、ろうあ者の最も近い存在としての行政=福祉事務所に手話の出来る職員が居れば、要求を聞いてもらえる。
そうでないといつまでたっても福祉事務所は、ろうあ者のことを聞いてもらえず、地域の身体障害者団体の中で他の肢体不自由協会や盲協会と比べてもろうあ協会は「障害が軽く」何とかやっていける、という考えを持ち続け、ろうあ者福祉が皆無なまま事態が過ぎて行くという切実要求もあった。
「ゆりかごから墓場まで」ろう学校の教師やろう学校に依存
さらにこの要求は、卒業後もろう学校にろうあ者の全生活を依存しなければならなかったろうあ者の「ろう学校依存からの独立宣言」であったとも言える。
手話通訳者が京都で配置されるまで、ろう学校を卒業した生徒のほとんどはその卒業後の生活で困ったことがあればろう学校に依存しなければならないほど日本の福祉制度や支援制度は大きく立ち後れていたからである。
ろうあ者は、ろう学校卒業時における進路指導(就職斡旋)の結果、就職し、職場で起きた労働条件等さまざまな問題、結婚、出産、家庭生活から子どもの育児などそれこそ「ゆりかごから墓場まで」ろう学校の教師やろう学校に依存せざるを得なかった。
京都のろうあ者の中では、それは喜ばしいこととして受けとめるよりもろう学校を卒業しても成人としての扱いを受けることの出来ない哀しいことでもあり腹立たしいことでもあった。
ろう学校から「拘束」「圧迫」されているという潜在的感情
ろう学校との信頼関係で、ろうあ者たちが生活していたと考はえられず、逆にろう学校から「拘束」「圧迫」されているという潜在的感情があった。
だから、「福祉事務所に手話の出来る職員を」の要求は、卒業後もろう学校にろうあ者の全生活を依存しなければならなかったろうあ者の「ろう学校依存からの独立宣言」であったとも言える。
その意味では、普通学校と異質な卒業生との関係がろう学校に存在していた。
例えば、相談や結婚紹介などが「組織的に制度化されていた」と言ってもいいような、普通校では考えられない卒業生とろう学校、ろう学校の教師との関係が形成されていた。
成人として生き抜くためには
ろう学校への依存を打ち切らなければならない
卒業生同士と他のろう学校の卒業生の結婚話。結婚、育児などには少なくない「お金」がろうあ者・親から教師・学校に渡されることはまれではなかったとも言えるだろう。
公教育を受け、公立学校を卒業したろう学校の生徒を自立した社会人、成人と見なすこともなく、ろう学校との関係が存在していた多くの側面を否定することは出来なかった。
その事からの脱却。
成人としての自分たちが成人として生き抜くためには、ろう学校への依存を打ち切らなければならないという深層はろうあ者の中に存在し、その不満は飽和状態に達していた。