手話通訳保障という概念
最初に断っておかなければならないのは、手話通訳保障という概念である。
これは、手話通訳派遣や手話通訳するという意味だけではなく、国や自治体が本来そこに住む人々のコミューン、共同体社会として手話通訳を保障するという意味でつかっている。
くわしくは、以下その根拠を述べる。
手話を社会的に認知させようと
動きが野火のように
① ろうあ者の要求を無視・軽視・実績が皆無であるとする国の傾向へ地方から の取り組み
戦前、ろう教育が、ろうあ者の意思とは別に手話法から口話法へと転換された頃に、手話を社会的に認知させようとする動きが野火のように広がりを示した。
しかし、それが手話通訳制度への要求となるためには少なくない月日を必要とした。
全国各地で名称はともかく、手話や手語通訳を行政の手で、行政に手話通訳者を配置してほしい、という運動はろうあ者を中心に次第に高まって行った。
それは、各地で統一的な要求としての取り組みが進められたわけではないが、本質的に共通項を持ったものであった。
② 福島県議会から京都府議会そして国会へと手話通訳保障が政治課題とされた 歴史的教訓とその取り組み
手話通訳保障要求が議会で議員によって取り上げられたのは、1962年7月10日福島県議会が最初であり、その4年後の1966年12月21日京都府議会における代表質問へと結実する。
この時期は、国が手話通訳などの問題を全く受け付けない中で、地方自治の住民であるろうあ者が直接地方行政に働きかけ、手話通訳を要求し、手話通訳制度化の基礎的条件をつくり上げてきた「地方自治レベルの時期」と言える。
この記録を故板橋正邦氏が、「ろう問題に関する国・地方議会質疑集」(1,000部)を後生に残すため自己負担以上の犠牲を払い冊子としてつくられている。
この時期、以下に述べる地方議会でろうあ者問題や手話通訳について取りあげられることはなかったが、故板橋正邦氏は福島や東北のろうあ者や手話通訳者が中心となって国会議員に働きかけ、国会史上初の手話による国会議員質問を実現している。
今すぐ、でもそれが出来ないが、きっと、という決意は手話通訳制度を産みだした源泉なのであろう。
ただし単なる資格だけの手話通訳は、手話通訳制度でない、ということは故板橋正邦氏は重重承知していてろうあ者運動の手綱を離すことはなかった。
福島県議会から国政へ要求実現を高めていった福島県やろうあ協会、手話通訳者、故板橋正邦氏に賞賛の声を贈っても贈れきれないほどである。
1981年2月14日
地方から国政へと手話保障要求
地方自治レベルで取り上げられた手話や手話通訳の問題が国政レベルで取り上げられるのは1981年2月14日の参議院での質問であり、福島県議会での代表質問から19年の月日が過ぎ去っていた。
このことは、地方自治のレベルから国レベルへと手話通訳要求は積み上げらた運動の成果であり、1980年代になると国は、手話通訳保障の要求を無視することが出来なくなり、国民の支持の広まりとともに社会的にもろうあ者問題、手話、手話通訳の問題は大きな脚光+を浴びることとなる。
1966年12月21日、京都府議会
ろうあ者問題や手話通訳の問題についてとりあげられた
1966年12月21日、京都府議会において、府会議員がろうあ者問題や手話通訳の問題についてとりあげたことについて触れておきたいと思う。
京都府議会において府会議員がろうあ者問題や手話通訳の問題についてとりあげ、京都府知事に質問する際事前に議会事務局とろうあ協会と府会議員との間で折衝が行われた。
議会本会議の議場で手話通訳が行われてこそ
傍聴席に集まるろうあ者の手話通訳は傍聴席で行うのではなく、傍聴席に居るろうあ者が府議会本会議場全体を見渡せる位置。
すなわち質問する議員、答弁する知事の姿を含めて見渡せる位置に手話通訳が居てこそ、ろうあ者が府議会を傍聴できるということを京都府議会側に承認させることであった。
京都府議会本会議中には、通常知事を初めとする京都府側と議員及び府議会関係職員が府議会会場に入ることが出来るが、それ以外の人が入るというのは極めて異例なことであるとして京都府議会事務局は手話通訳者が府議会本会議場で手話通訳をすることに難色を示した。
今日では、このようなことが起きると社会的指弾を受けるが1966年当時では、全国の各議会で手話通訳が議会場で行われるとことは、皆無であり、そのようなことは論外とされていた。
府議会本会議場を見据える傍聴なのに
ろうあ者は傍聴席で傍聴席を見なければならない
自分たちの切実な要求が府議会本会議で取り上げられるのに、自分たちは、傍聴席にいて手話通訳を「見る。」
これでは、議員の様子や知事や各部長の様子が全く解らないではないか。
健聴者は、府議会本会議場を見据える傍聴なのに、ろうあ者は傍聴席で傍聴席を見なければならない。
このようなことが社会的に存在するから京都府議会でろうあ者の問題が取り上げられるのだ、とろうあ協会はねばり強く京都府議会に働きかけた。
「傍聴席での手話通訳」と
「府議会本会議場内での手話通訳」の違い
「傍聴席での手話通訳」と「府議会本会議場内での手話通訳」の違いと手話通訳保障の基本を見据えたろうあ協会の働きかけは、京都府議会全体を納得させることになる。
この歴史的意義は重大なものであった。なぜなら議会が手話通訳をつけることを認めたからである。
京都府議会でろうあ者の問題、手話通訳の問題が取り上げられたとき、多数のろうあ者が仕事を休むことを雇用主に懇願して傍聴に詰めかけた。
そして、手話通訳者は、京都府議会のいわゆる「ひな壇」横で手話通訳した。
質問する議員や答弁する知事など京都府側の真横で手話通訳が行われたのである。
二階の傍聴席から見ていたろうあ者にとって議員ひとりひとりの動きや、議場がすべて見渡せ、議員と知事のやり取りも分かる位置である。
府会議員の質問は、
「ひとりのろうあ者に対してひとりの手話通訳を………」
と当時では、そのこと自体が夢のようで、信じられないような質問であった。
この質問に対して、京都府知事は、
「ろうあ者のかたがたがが、生きがいのある社会になるように努力してまいりたいと、それはお約束します」
というような答弁で、直接、手話通訳者を京都府に配置するという京都府知事の答弁は出なかった。