京都府ろうあ者成人講座の開催とろうあ者の問題の拡がり
事例 3-1
戦前ろう学校に通えるのは、比較的裕福な生徒が多かった。
それは、ろう学校に通うのに少なくない費用が必要であったためである。
そのためろう学校に通えないろうあ者ほとんどは、普通校でひたすら座っているか、家に閉じ込められたまま生活するかのどちらかであったとも言える。
未就学の人々がろうあ者 手話を覚え
ろうあ者同士のコミュニケーションが成立
ろうあ者のための成人講座が行われると、ろうあ協会の人々やろうあ者相談員は未就学の人々に筆舌に尽くしがたい働きかけをした。
家庭訪問をしても門前払い。未就学の人々と出会えてもコミュニケーションの糸口がつかめない。などなどひとつひとつは、何年にもわたる働きかけを必要とした。
その結果、徐々に未就学の人々がろうあ者のための成人講座に参加しはじめ、手話を覚え、ろうあ者同士のコミュニケーションが成立していったのである。
この未就学の人々への働きかけは、どれ一つをとっても、簡単に説明できない。
しかし、ろうあ者のための成人講座が切っ掛けになったことで未就学の人々の大きな転機が訪れたのである。
創意・工夫・実際に応じたろうあ者のための学習講座
事例 3-2
当時、ろうあ者のための成人講座は、京都府教育委員会の社会教育課が窓口になっていた。
この窓口担当になったのは、ろう学校幼稚部に通う父親であった。
ろうあ者のための成人講座がはじまったとき、本人の希望もあったが、行政の理解もあり担当者になったのである。
だから、ろうあ者のための成人講座に対する意気込みやろうあ者・ろうあ協会のろうあ者のための成人講座に対する要望への実現のためにあらゆる努力が惜しみなく行われた。
創意・工夫・実際に応じた講座。
これらのことがあった積極的に行われたためろうあ者のための成人講座は、多くの実り多い成果を上げたのである。
「与える」行政ではなく、要求を「育て」て
京都府に要求で「揺さぶる」力が形成されないと
11年後の1977年になって、知事の側近から「ろうあ者のかたがたがが、生きがいのある社会になるよう」と知事が答弁した真意が話された。
すなわち、手話通訳の必要性と設置(手話通訳に堪能である府職員の従来の職務をすぐに変更は出来ないが、手話通訳できるように配慮するのは当然として考えてきたが。)は当然のこととして知事は認めていた。
ろうあ者の周辺の生活を変えることがないまま手話通訳者を置いてもその力が発揮されないだろう。
まず何よりも優先させるのは、文字も読めない書けないなどの学習する機会が与えられなかったろうあ者の学習をすすめ、ろうあ者が力を持って京都府に要求(揺さぶるように=当時知事は、ドラム缶を叩いて鳴らすように京都府を揺り動かすという比喩的表現をしていた。)するようにならなければダメではないか。
「与える」行政ではなく、要求を「育て」て、京都府に要求で「揺さぶる」力が形成されないと行政からの「恩恵」だけに留まり広がりが見られなくなる。
手話通訳配置を継続・持続させるためには
ろうあ者の人々の力の形成がもっと大きく
京都府内には、京都府と同等の力を持った特別指定都市である京都市や各市町村もある。
それらが、ろうあ者の人々の要求を受けとめないでは問題は前進的には解決しない。という主旨で答弁したものである。
上からの行政ではその場限りの一時的なものになる。
手話通訳配置を継続・持続させるためにはろうあ者の人々の力の形成がもっと大きくなることが必要であり、そのことがあってさまざまな要求が実現するものである。
だから知事は、その場限りの答弁とはしなかった。
本当に障害者の人々に責任を持った答弁をしたのが主旨であった故が話された。
長期見通しにたった知事の答弁には極めて深い意味があった。
この頃の京都府のろうあ者に対する対策は、直接対策はもちろん京都府の事業のあらゆるところにろうあ者が参加できるように対策が講じられていることが解る。
このことからも、京都府議会の知事答弁を調べる度に、「ろうあ者のかたがたが、生きがいのある社会になるよう」と答弁した知事の誠意が理解できる。