手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

京都における地方自治体における手話通訳保障論の展開

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  手話通訳公的保障論の行財政的根拠論展開

 

    安易な手話通訳  

「手話を行っている時間帯」だけに限定する傾向の克服

 

 京都では早くから手話通訳者の「労働の量と質」の問題に気づき手話通訳者の身分保障を取り組んできた。
 すなわち、手話通訳は何件行ったから、手話通訳件数とそれへの手当を支給したらそれですむというのは安易な手話通訳保障でしかないする考え方である。

 それは、手話通訳は、「手話を行っている時間帯」だけに限定する傾向の克服でもあった。
 そのため京都に於いては、1960年代末から1970年代にかけて手話通訳者の「公的保障」を要求してきたことにより、手話通訳における「量と質と数」の矛盾をも克服した論理展開が一定確立されてきた。

      特異な予算として目立つ

    手話通訳をした時間で想定した場合

 

 京都の少なくない地方自治体は、手話通訳の公的保障に対し手話通訳をしばしば手話通訳をした時間で想定してきていた。
 手話通訳はろうあ者が負担するものという受益者負担論を一定克服して手話通訳保障を試行したいわゆる「先進的地方自治体」でも手話通訳保障の予算を一回OOOO円×○回という計算に根拠を求める考えであった。

 「先進的地方自治体」が組んだ予算は、回数は少なく見積もられていたが今日から考えると手話通訳一回が数万円に及ぶ予算となる。
 しかし、全国的に手話通訳保障のための予算は全く組まれてはいなかった。

 当時としては、手話通訳者の手話通訳に対して、行政がその都度「旅費・謝礼を含めた」費用を支払うということは、画期的なことであった。

 しかし、その反面行政側に手話通訳の回数が次第に多くなると、当初予算では済まなくなり、支出が天井知らずに膨れあがると、次第に難色を示しはじめた。
 ろうあ者や手話通訳者は地方自治体の難色の原因が、国庫補助のない単費予算(国や府県からの援助や補助のない地方自治体独自の予算)となるため地方自治体全体の予算から考えると「特異な予算として目立つ」こととなる。

 

 手話通訳者を地方自治体の職員として採用  

                     行政の構造と構成を充分把握

 

 それなら手話通訳者を地方自治体の職員として採用すれば、予算項目と支出が変わり「特異な予算として目立つ」ことはなくなると要求した。
 この要求には、行政の構造と構成を充分把握していないとできないことであったが、ろうあ者や手話通訳者は熱心に学習を進め、行政の論理に対峙するだけの論理を形成していたのである。

 京都の手話通訳者の自治体配置について1970年代から一定の前進を示したのは、単に手話通訳保障だけを求めるのではなく自治体の行財政を分析し、研究し、その改善を示すだけの高度な行財政分析能力を忘れてはならないのである
 この行財政分析のためには少なくない自治体で働く人々の協力や情報交流と連携があったが、それは手話通訳保障の正当性と自治体の果たす役割を求める運動の成果としてとらえることができる。

 

  まず地方自治体から手話通訳保障の模範を示す

 

 手話通訳保障の自治体配置を根拠づけた論理としては、当時の京都府知事であった蜷川虎三氏の自治体論をぬきにして考えることはできない。

 蜷川氏はあらゆる場所で地方自治体とは暮らしを守る組織であり、暮らしとは暮らしそのもの、暮らしの周辺、暮らしの基盤であり、地方自治体はそれを守り発展させていくためにあるのであり、地方自治体の主人公はそこに住む住民であると繰り返し強調した。
  この地方自治体の解釈と理解は、手話通訳保障を求めるろうあ者や手話通訳者を勇気づけるとともに手話通訳保障の根拠を地方自治法の中にも見いだすことができたのである。

 

 特に地方自治法

「 第1条〔この法律の目的〕この法律は、地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする。

 第1条の2〔地方公共団体の役割、国の役割〕地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。

②国は、前項の規定の趣旨を達成するため、国においては国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務又は全国的な規模で若しくは全国的な視点に立つて行わなければならない施策及び事業の実施その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、住民に身近な行政はできる限り地方公共団体にゆだねることを基本として、地方公共団体との間で適切に役割を分担するとともに、地方公共団体に関する制度の策定及び施策の実施に当たつて、地方公共団体の自主性及び自立性が十分に発揮されるようにしなければならない。」

から地方自治体に手話通訳者を配置して、それのバックアップを国が行うとする関係が思考されていった。

 

   地方自治体の主人公であるろうあ者

   コミュニケーションの阻害により

    主人公になり得ていない実態とそれへの改善

 

  地方自治体の主人公であるろうあ者が、コミュニケーションの阻害により主人公になり得ていない実態とそれへの改善を進める要求は、法治国家の日本ではコミュニケーション保障を否定する根拠を失って行った。

 これらの法と解釈とあり方をふくめた手話通訳保障の壮大な論理的整理は、その後の京都の手話通訳保障の根幹を形成したがゆえんに他府県とは行政保障要求などで異なった流れを形成した。
 その後、地方自治体における手話通訳保障から国の保障へと運動の流れが形成されていくが、他府県との歩調の違いは運動の流れにも反映し、国の責任の所在を的確するに至らない要因にもなった。

  以上の論理的整理を踏まえ京都では、地方自治体に手話通訳者の配置と採用を要求する運動は大きく展開することになる。

 

      手話通訳者の公的保障要求の背景
 
 手話通訳保障の前提は、手話通訳を行う手話通訳者の生活保障を抜きに考えることはできない。


 近年、手話通訳と手話通訳者の身分(わかりやすく言えば生活保障)を切り離して、適切な手話通訳が行われればそれでいい。
 その場合、一定の資格を有する手話通訳者であればいいので、その人が行政の正規職員であろうが団体職員であろうが法人職員であろうが、それ以外の人であっても問題はないのだとする意見がある。

 この意見の背景には、手話通訳を必要とするのはろうあ者であり、ろうあ者の要求を満たす手話通訳が行われればいいのだとする考えがある。
 この考えは、手話はろうあ者のためにあるのだと固持するあまり、健聴者だけで手話を論じたり、手話通訳を検討することを否定し、排除する傾向があることを否定できない。
 この考えは、別途述べる手話通訳制度調査検討委員に、ろうあ者代表は選出されても手話通訳者の代表は選出されなかったことにも表れている。

 京都ではこれらの問題をすで前述したように克服してきた。

  

  手話通訳保障の黎明期  

   ろうあ者に「従属」する関係ではなく

        「お互いに対等であり、平等」を提起

 

 手話通訳はろうあ者のために存在するとしても、手話通訳を行う手話通訳者はろうあ者に「従属」する関係ではなく、「お互いに対等であり、平等」である。
 この立場を貫かないかぎり手話通訳保障の発展はない、とするろうあ者と手話通訳者の関係の成立が整理されていた。
 これらの考えは当然のことであるが、手話通訳保障の黎明期には、全国的にこれと異なった関係が通常であった。

 

 例えば、手話通訳者は、ろうあ者の意向を抜きに独自的行動を起こしてはならないとするろうあ者の一部(ろうあ協会の役員の一部)からの「根深い傾向」である。

 

・手話通訳者の会議には必ずろうあ協会の役員が参加して事の是非の決定権を持っている。

 

・手話通訳者は必ずろうあ者相談員と同行しなければならない。

 

・手話通訳者はろうあ者が居ようとそうでなくても絶えず手話で話をしなければならない。

 音声言語だけの話は許されない。

 

などなどのことである。
 このことは極端な例としてとらえられるかもしれないが、決してそうではない。

 

  健聴者に対する「不信」と「懐疑心」

          などなどが渦巻いたことへの克服と真の協働

 

 ろうあ協会の会議は手話通訳者を入れないで独自に行われるのに、手話通訳者の会議はろうあ者を入れないで独自に行ってはいけないとする「深層」には健聴者に対する「不信」と「懐疑心」などなどが渦巻いたのだ。
 だが、これらは表面化することなく「伏流」して来ていた。
  これらの傾向のほとんどは、ろうあ者のコミュニケーションや諸問題を健聴者のコミュニケーションや諸問題から切り離して、

 それを異質のものとして、ろうあ者対健聴者というように問題を対立・単純化することでしかなく、日本全体での手話通訳保障をすすめる上で大きな弊害を生む「論拠」であった。