手話通訳制度調査検討委員会報告書(1985年5月20日) の問題点とその後の手話通訳制度に与えた影響 (4)
1970年代から1980年代にかけて、手話通訳者の間でも「ことば」で通じない手話の地域的特色は多くあった。
手話も同一の表現であってもそれぞれの地域で異なった「意味」を現していた。
同じ手話でも異なった手話の意味があることが理解できると
手話による会話の流れはスムース
例えば、「照る、ヒカル」は、拳の背を額にあてて開く=パーをする。
それは、京都のろうあ者老人の間では、京都で最初に「電灯」がともされたとされる場所=「南座」の場所をも表していた。「電灯=南座」である。
ところが、福岡県の博多のろうあ者老人は「照る」の文字から「昭和」を意味したり、炭坑の「ヘッドライト」を意味したりする表現をしたりしていた。
これらの違いは、手話で話し合えば、その違いに気づいて、「問う」ことで、同じ手話でも異なった手話の意味があることが理解できて、手話による会話の流れはスムースになる。
視覚的なことと聴覚的な音声言語と異なる
いわゆる「音声言語」の「方言」と異なって、多くの場合は、手話の意味が異なることで派生するものだから
「それは何のことですか?」
「私の所では、……の意味ですか」
などなど話しあえば、「あー、なるほどね。そういう意味があったんですか」という理解が可能になったからである。
手話を「見る」。
相手に「見せる」。
という視覚的なことと聴覚的な音声言語と異なることも少なくない。
そのためある地域には他の地域にない「全く表現の違う手話」もあった。
それでろうあ者同士が通じ合い、理解し合っていたのである。
国会の場で
独自性を踏まえた上で手話を論じるべきであった
国は国会の場で、音声言語と手話を同一線上に置いて論じるべきではなく、その独自性を踏まえた上で手話を論じるべきであった。
そうなると地域での「独特な手話表現」があることがわかり、手話の数もより正確に把握されたことだろう。
さらに全国のろうあ者にその手話表現を紹介し、それが全国のろうあ者に受け入れられるならば、「共通手話」として広まり、定着していっただろう。
交流 話し合いは 手話理解の前提である
全国のろうあ者が集まると手話での会話は最初ぎくしゃくするが、次第ににぎやかな会話になり、帰るときは互いに相手の手話表現で話して分かれるということがしばしばあった。
それが年を経るごとに次第に共通項が増えて行った。
国は、これらの交流を支援して、その中で生み出されてくる共通手話を「共通手話」とするぐらいの度量があってしかるべきであった。
国家統制型言語支配を反省
日本の国は、標準語を無理矢理決め、国家統制の下多くの国民を苦しめ、自由な表現を奪った国家統制型言語支配を反省し、国際的水準に立って手話を使っている当事者であるろうあ者の基本的人権を尊重した手話を認知すべきだったのである。
国が決めた言語を強要することで
世界中で血塗られた歴史があったのに
なおいわゆる「方言」を日本語としない考えは強く、日本の学校教育では、日本語の授業とは言わないで国が決めた「標準語」(教科書用語・教科書漢字)を国語として、国語授業がされている。
国際的にフランス語、イタリア語、米語などなどのように日本語の授業としないで、国が定めた「国語」という表記を使っていることへの注視なしに手話は論ぜられないのではないか。
世界史を紐解けば、いや現在でも言語の使用をめぐって血塗られた事件が数え切れないほどある。
手話通訳者に「国語」の力量をつけるように強調する傾向があるが、肝心なことは日本語を習熟することなのである。
日本語を否定して国語を肯定
「国語」とする考えは、先に述べた「方言」を日本語とは認めない考えが明確に表れている。
手話は言語だ、と言いつつも国語を手話通訳者は学ばなければならないと主張する人々が存在する。
その人々もまた日本語を肯定しないで、国語を肯定しているのである。
このようなことでは、手話の言語を理解しているとは言えないだろう。
むしろ、国が出し、国が責任を持たないあいまいな概念の「標準手話」なるものを肯定する結果でしかない。
1985年前後は手話表現の岐路
標準語が「おおむね東京の中流階級の使う東京方言に基づくものとされている。」が、このことによって、「おおむね東京の中流階級の使う東京方言」以外の言語が否定されていった歴史と同様に、国は手話も同じ歴史を繰り返し強要させようとしたのである。
しかも「おおむね東京の中流階級の使う東京方言に基づくもの」ということもなく。
1985年前後は、その岐路だったとも言える。