(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)を再録・編集して公表してほしいとの要望に応えて。
手話を見る人に「転移」する
【「二次元」から「三次元」への手話表現が展開すると、その手話を「言葉」や「文字」に「変換」する頭脳は停止する。
ろうあ者とともに映画を魅入るようにその「情景」にひたすらのめり込む。
そこには、そのろうあ者が見た「情景」がそのまま手話を見る人に「転移」するだけ。
「行きつ戻りつする」ことを
「なんどもなんどもくり返す」
それだけではない、「二次元」から「三次元」への手話表現はしばしは、「三次元手話表現」から「二次元手話表現」へと「行きつ戻りつする」ことを「なんどもなんどもくり返す」のである。
手話表現は単なる手の動き、身体表現としてだけではなく「情景」が「浮き上がり」、そして、「立体化」=三次元化して、状況が伝わり、そこに人が登場する。
私は、(特別寄稿)を再録・編集するためもう一度、菊池さんや長崎のろうあ者の人々の手話表現と文を読み直したとき、「別ちがたい」ことに気がついた。
線路ぎわに赤ちゃんを抱いたお母さんの死体。
手を合わす。
空を仰ぎ両手両足を空に向けたままの無数の死体。
必死で歩く。
助けて、と言っているような人。
助けられない自分。
歯医者さんの家は跡形もない。
手を合わす自分。
家内の家が近く。
行けなくて手を合わす自分。
家に向かって歩く自分。
累々と横たわる死体。
ひとりで歩いている自分。
おいしそうな梨。
拾って持って帰る自分。
50°Cぐらいの暑さ、燃えて熱を持つ電線。
熱い。
全部燃えた枕木。
慎重に歩く自分。
橋は落ちそうで危ない。
バランスをとりながら炎の橋の上を歩く自分。
わずかに残った橋のレールを歩く、
ふと下を見ると川の中には多くの死体。
かげろうのようにゆれる街。
ひとり歩く。
家に帰る。
妻と子が無事。
抱きしめる。
こう感じたという手話表現が続いていない
手話表現とその順序を注目して
情景⇔自分の動き(手を合わす) 情景⇔自分の動き(必死で歩く) 情景⇔自分(なにも出来ない。)自分(歩く)⇔情景 自分の動き(歩く)。
自分一人。
梨。
自分の動き(拾う)⇔情景。
情景。情景。
自分の動き(慎重に歩く)情景。
自分の動き(歩く・しかも慎重に)情景。
自分は見る。
死体⇔全体の情景(かげろうのよう)。
自分の動き(歩く)。自分はひとり。
このように、菊池さんは、情景と自分の行動を手話表現する。
自分が見た、と表現するのは、川を渡る時の死体だけである。
自分が見た。
自分ら見たらこうなっていた。
自分は、こう感じたという手話表現が続いていない手話表現とその順序を注目して欲しいと思う。
手話を見る人々を
「同じ風景の中」の中に
招き入れる手話表現の「巧みさ」
手話表現と順序性の組み合わせが、その手話を見る人々を「同じ風景の中」の中に招き入れる手話表現の「巧みさ」なのである。
私は、菊池さんが見た情景ではなく「情景」の中に「菊池さんを浮き上がらせる」という3次元的な手話表現と考えている。
情景の中に菊池さんがいる。
情景の中に菊池さんがいる。
そして、菊池さんが情景を見るという表現。
手話表現を見る人に、情景の残像が残ったまま菊池さんの存在が加わることになる。
ちょうど私たちが、映画を見るように映画の中の主人公を見ながら、時には自分が主人公になり切ってしまう効果をあげるのである。
映像の処理・残像との融合は、映し出された映像のコマの組み合わせによって、臨場感を表して行くのによく似ている。
相手の脳裏に残しながら
そこに新たな人・物を「融合」する
手話表現は高度
菊池さんが、燃えさかる橋の上の線路を歩く絵がそうである。
いくつかの手話表現をして、相手の脳裏に残しながらそこに新たな人・物を「融合」する手話表現は、高度な表現である。
だから、私たち手話を学ぶものは、なかなかその領域に達することが出来ない。
平面化できないこれらの手話表現は、ビデオなどで再現出来ず、一定の領域に達した人間と人間によるコミュニケーションの中で成立する「認識」である。
が、ゆえんに、広く認識され重視されないでいる。
あまりにも巧みな手話表現であるため「認知」されていない
あまりにも巧みな手話表現であるため、その手話表現が、「認知」されていないともいえよう。
この手話表現は、ちよっとやそっとで「真似」出来る代物ではない。
これらのことを駆使してまでも、私たちに伝えようとするろうあ者の人々への尊敬の念を持たざるを得ない。
菊池さんたちの証言者は、心の奥深くから自分が体験したこと、自分が見た情景をいかに臨場感を持って知らせるのか、を考えて、最高レベルの手話表現で語ってくれているのである。
そこには優しさに満ちた手話がある。