(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)を再録・編集して公表してほしいとの要望に応えて。
「事実を見たとき」に初めて
敗戦を知らせたという出口さんのお母さん
母の泣く姿をいぶかしく思う出口さ。
お母さんはなにも答えていない。
終戦後2,3日して大浦岸壁にアメリカ兵が上陸して事実を出口さんは「見る」。
その時になって初めて、お母さんは出口さんに敗戦を告げる。
出口さんをこれ以上心配させようとしたためか。
被爆とその後の悲惨な生活を心配したか。
お母さんの心の中には多くのことが去来し数え切れなかったことだろう。
出口さんが、「事実を見たとき」に初めて敗戦を知らせたという出口さんのお母さん。
そこに人として割り切れない哀しみを感じる。
お母さんの心配をよそに出口さんも菊池さんと同様アメリカ兵に可愛がられたという印象を持つ。
被爆から39年経った
現在の自分の心の内を証言
1984年。
出口さんは、被爆から39年経った現在の自分の心の内を証言する。
原爆のことを思い出すたびに恐ろしくて寒気がします、と。
毎年暑い季節になると食欲が失せる。
熱い風呂をいやがる。
特に、焼きなすやかば焼きの黒く焦げた部分。
出口さんは、原爆投下直後の爆心地で見た焼けこげた人々の姿を思い起こし気分が悪くなる。
当然そこには、父の焼け焦げた背中や下半身の姿も含まれている。
出口さんが、語った時は、暑い日だったのだろう。
食欲の失せた出口さんは、心を和ませるために人々の賑やかさの中に身を置く。
そして60歳を前に自分の体重が急速に減った原因に被爆ということがあるのではないか、と案じる。が、それは話さずに不安を述べている。
死にたいする不安に立ち向かう出口さんの頭の中では、被爆した悲惨な人々の姿は、決して消えることはない。
出口さんは、被爆直後の長崎の人々と街々を「地獄図」と表現する。
戦争には、天国はなく地獄しかない。
出口さんは心から世界中の平和を願うと訴えている。
この証言を私が目にし、編集し、手話通訳研究誌に掲載したのは、ずいぶん昔のことになってしまった。
39年経っても癒されることがない
という「叫び」が今も聞こえてくる
私は、長崎から送られてくる原稿に目を通しながら、なぜか「かば焼きと焼きなす」が食べられないという出口さんの話に引っかかりも感じたし、それだけ強烈なショックの後遺症があったと推測した。
今でこそ、戦争による心的外傷後ストレス(PTSD)とされているが、当時はそんなことすらも考えられだにされなかった。
「かば焼きと焼きなす」に出口さんが見た地獄絵が重なり合っていたことのすべてが表現されているように思えてならない。
被爆による肉体も精神も終戦後の39年経っても癒されることがないという「叫び」が今も聞こえてくる。
「かば焼きと焼きなす」の表現は私の心に纏わり付いている。
遺体が数百、数千、数万となるとまさに「地獄絵」の連続を出口さんは見た。でも地獄絵は、絵として静止画でない。
思い出したくない出来事を、思いだし証言していただいたことに改めてお礼を言いたいと思う。
度々書き続けるが、あの苦しさの中でよくぞ言っていただいたと感謝する気持ちは私の中で消えることはない。
毎年行われる平和祈念式典に初めて手話通訳者が立ち、手話通訳できるようになったのは1999年8月のことだったと聞いた。
それまでは、遺族席か、会場の片隅で手話通訳が行われていた。
長崎の平和記念式典で演壇に手話通訳が立つことが出来ていなかったことは、被爆した聞こえない人々も多数居たのにその事実すら44年間も「認知」さえされなかったことの現れである。
平和記念式典
私は一度も出席したことはありません
聞こえなかったがゆえんになおのこと聞こえる人々以上に、より手厚く聞こえない人々に知らされるべきであった。
が、その逆のことが行われていたという哀しむべき事態。
出口さんは最後に語る。
「平和公園では、例年平和記念式典が催されますが、私は一度も出席したことはありません。今日(8月9日)の式典の案内状も届いていましたが行きたくありません。」
と言う言葉の意味はあまりにも重すぎた。