(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
あらゆる想いが籠められていた原爆雲
木戸さんの原爆雲の手話表現。
あらゆる想いが籠められていた。
通常、30秒の出来事をこれだけ細やかに時間をかけて手話で説明することは不可能である、とも言えるのではないだろうか。
手話の強弱は、表情や動きや時間と空間の描き方でも表現される。それだけ多彩で留まる事がないほど多くある。
人間の表現やコミュニケーションの無限を表していると同時に人間には限定や制限のない自由表現が存在していることの証明である。
哀しみという言葉で語られない手話表現の中に、表現の自由を保障しなければならない事を想起していきたい。
人にはなすことは堅く封印していたが
道の尾で止まって汽車を降り、木戸さんもまたほかのろうあ者の人々が通ったように線路上を歩いて爆心地を通る。
このときの木戸さんが感じたことのすべては、「原爆をみた聞こえない人々」の写真がすべてを語っている。
木戸さんと会って多く語り合っただけに私はこの写真を見て恐怖と戦慄は消せない。
翌10日から、木戸さんは長崎市内で生活を再開するが、人々と風景は決して脳裏から消え去ることはなかった。
でも人にはなすことは堅く封印していた。
原爆手帳を手にすることも
聞こえないがゆえに
原爆手帳を手にすることも聞こえないが故にわずかながらの補償も放置されていたことを淡々と述べる、木戸さん。
木戸さんの、人柄だからそうなんだ、そう言うのだ、ということで済ましていいのだろうか、と思う。
残虐で非人道的な原爆投下。
それ以降でも人道的な救済は行われてはいなかったというあまりにも惨い現実。
笑みを戻した木戸さんが、原爆投下後の生活をなめらかな慈愛に満ちた手話で語ったかと思うと、悔しさはつのるばかり。
木戸さんは、自分の周りは親切な人ばっかりだったと言う。
近所の人、師匠、ろうあ者の仲間、妻……
自分の和裁人生の最後にすると言いながら
60歳になって生まれた娘の成人式の着物を縫う。
それを自分の和裁人生の最後にすると言いながら針を持ち続け、被爆体験を言い終えた木戸さん。
私は、取材のために和裁の仕事をする木戸さんの家に訪れたこと思い出している。
何事もなかったかのように一つのまっすぐな流れに戻っていく
一つのまっすぐな流れが、途中で激流となり、また何事もなかったかのように一つのまっすぐな流れに戻っていくような、そんな時に私は木戸さんに会っていたのだ。
人生も終演に近づいていることは十分承知しながらも、飾ることなく実に素直に何もかも、打ち分け語ってくれた木戸さんのあの時、あの時間。
もっともっと大切にするべきだった。
それだけの想いが込められたものを受け止めて、取材で撮影した写真をみると、木戸さんの惚れ惚れとする手捌きが残っていた。