手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

被曝体験記録 長崎 広島 まざまざと思い知らされた取り組みと違い

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     (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 私は広島での取り組みとの違いをまざまざと思い知らされたことがあった。

 

 ろうあ者の証言。それが悲惨であればあるほど、絶望的であればあるほどろうあ者の人々は、淡々として語ってくれる。

 

 その淡々とした表現の中に奥知れぬ叫びを超えた叫びがある。

 

 それを脚色しないであくまでも本人の意に即して記録するのが長崎だった。

 

       ろうあ者の被爆体験が事実に基づいて
     書かれているかどうか訝しい

 

 長崎のろうあ者被爆体験は、長崎のろうあ協会と全通研長崎支部が共に携えて記録されてきた。

 

 その初期、伊東雋祐先生が手話通訳問題研究誌に広島の仲川文江さんにろうあ者の被爆体験 を記録してみたらと提案した。

 

 伊東雋祐先生の手元に送られてきた文は、これだがな研究誌には載せられないだろうからなんとかならないか、なんとかしてほしい、と強い依頼を受けた。

 

 たしかに「文」を読むと伊東雋祐先生の言う通りでだった。

 

 伊東雋祐先生も十分承知しせざるを得ないものだった。

 

 文になっていない断片的な文字が飛び飛びに書かれているものだって到底文章と言えるものではなかったし、手話通訳問題研究誌に掲載出来るものではなかった。

 

 それよりも何よりもろうあ者の被爆体験が事実に基づいて書かれているかどうか訝しいところが多々あった。

 

     ろうあ者の人が話されていることは
          と大きくかけ離れていた

 

 すぐ広島に飛んで、仲川文江さんと会い、証言してくれたろうあ者の人と出会った。何度足を運んだことだろうか。

 

 ろうあ者の人が話されていることは、仲川文江さんの断片的な文と大きくかけ離れていた。

 

 仲川文江さんは、話を聞く前に内容を自分なり組み立てていること、ろうあ者の被爆体験は、「そのろうあ者の手話が解らないのでお父さんに同行してもらって、お父さんの手話から文字を書く」という話だった。

 

       事実にではなく

   自分の主観を先行させる
     とまで言い切られ

 

 あくまでも事実に、ではなく自分の主観を先行させる、とまで言い切られたのには驚いたが証言していただいたろうあ者の方の気持ちを踏みにじるわけにはいかない。

 

 すべていちから私が書き直し、ろうあ者に確かめ、了解を得て、広島からのろうあ者の被爆体験を手話通訳問題研究誌に連載した。

 

 しばらくして仲川文江という名前を私的生活上の問題で出せなくなったので連載を止めたいとの申し入れがあり了解した。

 

 連載記事は、仲川文江さんが個人ですべて書いたのではなく手話通訳編集局長の私がすべて書いたと言ってもいいような内容だったからである。


 その後、私は大病を患い寝込み続けていた。

 

 突然、何の手紙も無く仲川文江著「生きて愛して」の本が一冊送られてきた。

 

 そこには、手話通訳問題研究誌の編集などとは一切関わりなくすべて自分が書いたとする内容だった。

 

      ろうあ者のみなさんの証言が
  個人だけの「著作」として世に出され

 

 彼女の文章でないものが彼女の著作として本として作成されるとは、夢だに思っていなかったからそのショックは隠しきれなかった。

 

 それ以上に、被爆体験を語ってくれたろうあ者のみなさんの証言が個人だけの「著作」として世に出されることは許しがたいものであるとさえ思った。

 

  長崎と広島の取り組みと記録は、大きく異なっていた。

 

 長崎と広島との交流を企画した。

 

   今さら被爆体験を記録することは必要ない
       と長崎と広島の交流は断念 

 

 広島のろうあ協会や仲川文江さんから出されたのは、長崎のような多くの人々との協力のもとで証言を記録すること、ろうあ者の被爆と生活の前後を記録することへの真っ向からの反対だった。

 

 今さら被爆体験を記録することは必要ない、とまで言い切られ長崎と広島の交流は断念したが、その後の事態はその言葉と裏腹になっている。