手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

京都 の 手話 貴君しかない 手話 を知らない人も 手話 を学んでいる人もともに

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写真 道ーろうあ者運動を支えた人々(著者豆塚猛 発行全日本ろうあ連盟)より

 

新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 1954年1月から7月にかけて京都で手話研究会(7人の人々が中心 ろうあ者5人 健聴者2人)が開かれ、記録・研究した冊子が出されている。このメンバーだった明石欣造さんから1960年末にこの冊子を更に充実させて欲しいとの願いを籠めて手渡された。明石欣造氏から直接に書かれた手話を伝授された立場から、手話の今日的解明研究のための一考察と冊子に書かれていることを紹介したい。
 ただし、この冊子は、古く不鮮明になった文字や旧漢字。当時の印刷ーガリ版刷りーのため独特の省略文字が使われているが、一部再現しつつ断りを入れて文章を再現したが、誤解を避けるためにこの冊子の全文を手話の今日的解明研究のための一考察の後に公開したい。現存する画像等を掲載し後世に伝達したい。同時に手話を知らない人も手話を学んでいる人も聞こえない、聞こえにくいと条件の中で揚棄したろうあ者の熱き熱意と知恵と創造を知っていただくためにこれほどうれしいことはない。

 

  想像だにしなかった
人間としての暮らしが見てとれる

 

 信じがたい重圧に耐えぬいた生命力。

 

 写真と文字を読めば想像だにしなかった人間としての暮らしが見てとれる。それが豆塚猛氏の「道ーろうあ者運動を支えた人々」の本なのである。

 

 「道」に登場する故片岡吉三さん。

 

 幼少期、京都で指折りの資産家の家で育ち最高の教育や生活が与えられた。

 

 だが、一瞬にして極貧生活を強いられる。

 

 戦時中の厳しい監視下の基で、凍える手に息を吹きかけて日本画を描き続けた。

 

 その緻密さと見事さは見るものを驚嘆させた。

 

 その彼が、カメラマンの豆塚猛氏に色紙を示している。

 

   京の手話 貴君しかない

 

 色紙には「京の手話 貴君しかない」と書かれ、故明石欣造氏が亡くなったときに贈った色紙のコピーと書かれている。

 

 だが、私には、それだけでないことが読み取れる。

 

 人間はみんなひとりひとり違うのだ。

 

 それだからあなただ。貴君なのだ。

 

 それのことを理解してみんなでまとまっていこうじゃないかと表情で現したメッセージの発信。

 

 そう読める。

 

 到達点にたどり着くまでには数え切れない事件と血と涙が流されてきた。

 

 次のより高い到達点を目指すのだとも語りかけている。

 

 哀しみを吹っ切り手話で語りかけている片岡吉三さんは、哀しみより喜びが勝るろうあ者運動で闘ってきたことを笑顔で提言している。 

 

   伝承を願った「京の手話」

 

  この「京の手話 貴君しかない」の貴君が一人称でないことは充分理解できたが、この色紙が反射してあることを伝えた。

 

 明石欣造さんが、死ぬ直前までに私に伝えた、伝承を願った「京の手話」のことである。

 

 道ーろうあ者運動を支えた人々(著者豆塚猛 発行全日本ろうあ連盟)は、1954年1月から7月にかけて京都の手話研究会(7人の人々が中心 ろうあ者5人 健聴者2人)が開かれ、記録・研究した冊子とそれを画像として記録した明石欣造さんの手話を、なぜ貴方は研究・検討、公表しないのかと迫っているように思えてならなかった。

 

  私は、手話を講習会やテキストがまったくない時代、直接ろうあ者の教えてもらい、それを受けとめ咀嚼した。

 

 その時、一番アドバイスをしてくれ、1954年に作成した京都の手話研究会の冊子「手話」を手渡してくれたのが明石欣造さんだった。

 

 そこで故明石欣造さんが、伝承を願った「京の手話」を少しだけ紐解いて紹介してゆきたい。