手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
「1954年手話冊子」 第1章 (1)-8
生まれながら音声言語をきくことのない
ろうあ者を 思惟や心性を
この社会から切り離して考える錯誤
生まれながら音声言語をきくことのないろうあ者ー彼等の知性は低いといわれ、適応性に乏しいといわれ、而も(以下 しかも)彼等が、言語を知らない以前は、殆ど動物的段階とも考えられている。
のみならず彼等の心性は、原始未開人のそれに近いのではないかということも、屡々(注 しばしば )の事実として、思われる時さえある。
だからといって彼等の思惟や心性をこのままこの社会から切り離して、未開社会や動物社会と同一に考えることは、その錯誤も甚だしい。
なぜなら彼等も又、この社会に行き、この社会の慣習に従って生活しているのではないか。
日本の家庭や学校や社会で教えられ
日本語を学習し
日本語で思考し日本語で伝達
現社会には、現社会の、そこに集団表象があり、環境の雰囲気がある。
日本には日本人の、米国には米国人の、集団的な表象があり、パトス性がある。
そうして彼等は、日本の家庭や学校や社会で教えられ、日本語を学習し、日本語で思考し、日本語で伝達し報告する。
又彼等の触れるもの、体験し得るものも、ほとんどが日本の、しかもその地域の事物ああり事柄である。
「手話はろうあ者の母国語である」
という事は出来ない僕逹と同様に
日本語であらなければならない
こうした意味から、少なくとも、厳密に手話について考える場合には「手話はろうあ者の母国語である」という事は出来ないのである。
彼等にとって、母国語はやはり、僕逹と同様に日本語であらなければならないのだ。
そこで私達が通常「手話」といっているものの中には、前述のよう「身振り、表情」それに「手話」(指文字)も含めているのだが、厳密にはこの指話は、指話や指文字は、単語を指で交換に表現するものである。
指文字は日本語を
空間に伝達する音節文字の役割
外国語については、アルファベットを、日本語については、五十音を空間に指で書く代わりに、例えば、親指を横にしてあるa、又は「ア」という具合に指のしめし方に一定の約束をもい記号的表現するのである。
従って地名「アマガサキ」とか「トヨオカ」など、人名「ハナコ」とか、「タロウ」とか、手話では表現出来ない語を補うため、又は、文章音声をそのまま伝達、報告するために使用するものであって、親指一本で「男」とか「長」の意味を持った手話とは、自ずからその性質を異にするものである。
というより、指文字とは、日本語については、空間に伝達する音節文字の役割を果たすのあって、かのモールス信号や手旗信号に近いものである。
だから音声言語の習熟に不得手であり、あるいは、その段階にまで達し得ないろうあ者にとって、この指文字は充分使用することが出来ないし、その記号を憶えることにもあまり関心を示さないのである。