手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者によるろうあ者のためのろうあ者の手話 歳 誰 泥棒 京都 の 手話

手話を知らない人も

   手話を学んでいる人もともに

 {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー


  齢/齡。

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 手話は漢字通り、歯 が いくつ(指を折り曲げて勘定する)で歯の手話である。

 

 この手話は、漢字とともに歯から年齢が分かるという意味でもじつにシンプルで的確な手話である。

 

 年輪のように歯に刻まれた月日。古代からの教えを漢字とともに伝え表現する。あらゆる文化を取り入れながら人間のコミュニケーションを成立させ、その表現は無限性であることを示唆する魅力的な手話である。 

 

  誰。

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 この表現方法について明石欣造さんから聞いた記憶があるのだが、たしかな記憶でないので記憶の範囲で述べておく。

 

 誰という漢字が、口に横四線引く 口+人差し指、中指、くるり指、小指で 四 親指は付けない。

 

 という漢字の形状を表していたと言ったような記憶がある。

 

 顔の輪郭で「誰か」が解るという。

 

 手のひらを裏返して、頬にあて顔の輪郭を示し、「誰か解らない」という意味だったように思う。

 

 この手話は、しばしば誰か解らないとする本人の居るところで現されるのではなく、誰だったかなぁ、などの場合によく使われた。頬にあてた手のひらを前に伸ばして放つと「誰か知らない」となる。

 手のひらを反対の頬にあてると「大切」という手話になるなど、顔を使った手話は多い。この場合、表情は大切。

 

 「誰か解らない」という手話でも、少し笑みを浮かべると「知っているけど知らない、誰、」ということになり、少し目線を上または斜め方向に移すと「誰だった、思い出せないなあ、誰、」になる。

 

 表情は、手話の意味を大きく変化させ、こころの移ろいをも豊かに表現させる。

 

 誰でも手話を覚えて欲しい、という場合は、この「誰」の手話は使われていません。「みんなが」手話を覚えて欲しい、となるから。

 

 誰は盲唖学校時代に盲の生徒が聾の生徒が解らないので顔で誰かを知った手話に由来するという意見がある。

 が、盲唖学校時代のろうあ者は顔と言うより頭そのものを両手で確かめられた、とよく言っていた。その場合は、両手の手のひらで確かめるので甲ではない。

 

 手の甲で「誰」だが、裏返して手の平を頬にあてると「考える。」となる。「誰」だったかと「考える。」が手の甲を裏返すことで成立する手話。

 見た目や形だけではなく、動きやすい身体の機能を充分に使ってお互いのコミュニケーションし易いように手話は変容されてきた。

 そこには、身体に無理させた手話や強制されない自由に表現していい手話が、一定の暗黙の共通理解の上で使われてきた。お互いを理解するために。

 

 盲唖学校での学習や生活、盲人の生徒とろうあ者の生徒とのコミュニケーションや「齟齬」も沢山聞いたし、報告されていた。それをお互いの理解不足と決めつけるのは基本的誤りである。

 

 盲人の生徒がろうあ者の生徒を確かめるために手のひらで顔の輪郭などを確かめる、肩に手を置いて空襲から逃げる訓練、などなど戦前戦中は助け合って生き、生き延びてきた不滅の友愛を忘れてはならないだろう。時の為政者の思いとは別に。

 

 手の甲では、顔の微妙な特徴を把握できにくいし、ましてやそのことをろうあ者が手の甲を顔に付けて「誰」とする手話は、両手の手や肘を動かす事で無理な動きがもとめられることになる。そのような「無理する手話」はろうあ者同士の中で「自然淘汰」されていった。その自由があった。

 

 盲唖学校の指文字イロハニホヘトなどもそうであるが、教えられた一部だけが取り入れられて残った。

 

 ましてやアルハベットから人為的に造られた「指文字」は、その手指の負担の大きさや不自然さから敬遠されていた。

 

 手話は、手話で会話しやすいように、こころが通じ合うように、理解できるようにろうあ者によるろうあ者のためのろうあ者の手話として発達してきていた。1950年代頃までであるが。

 

 

 誰でも手話を覚えて欲しい、は「みんな」「みなさん」などで手話表現された。

 

 あくまでも、誰、という手話は、見知らぬ、覚えのない人、の場合である。

  

 考える+顔だが、手のひらを裏返して頬に手をあて上下することで、知らない人、覚えがない人などの意味があり、それから手を前に差し出すことで「誰ですか」

「どなた?」と手話表現する。


泥棒。

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鍵。

 和鍵の特徴である人差し指をコの字型に曲げて表現する手話。

 

  古くから盗賊・泥棒の俗称としてと買われていた指の形を受け継いだ物と考えられるが、この場合、コの字型に曲た人差し指を引き寄せる。

 

 盗むという意味もあり、警察署から手話通訳でよばれ、ろうあ者が取り調べている時に警官が大声で「ぬすんだんやろう!!」と叫び、人差し指をコの字型に曲げる。

 

 その動きにつられて、ろうあ者が頷くので警官が「ほら、盗んだことを認めているじゃないですか。」と詰め寄られたこともしばしばあった。

 

 「手話通訳は手話通訳者に任せて、あなたは声を出して話してください。大声はいりません。身振り手振りはいりません。」と言った。

 

 ろうあ者のえん罪を防ぐためには、大切なことだが警官はいつも不機嫌な顔をした。

 

 調書の後にろうあ者の名前と拇印。手話通訳者・名前と拇印を求められるのだから当然と言えば当然のことだったが、嫌な思い出だけが残っている。

 

 泥棒の手話には、ねずみ小僧の「頬被りの手話」もあったが、意味は違って使われていた。