手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
骨。
食道あたりから半円状に動かしあばら骨を表現する。
両手の指先が曲げられることによってあばら骨の形状を暗示する。
瞼に浮かぶのは、戦時中の食べ物がなかった時代の痩せこけた姿。
多くのろうあ者がこの表現を使っていたことである。
骨しか残らない姿。
「がりがり」に痩せ細って、という話の時に必ずこの手話が使われた。
それに身体を震わせると、痩せ細って真っ直ぐ歩けない自分の姿を投影したりして、自分が自分を見たわけでないのに、その姿を手話を見る側に伝える。
その当時のことを知るろうあ者は、あの姿そんものだった、と言う。全身で表現する手話。
ろうあ者は、過去の自分の姿を、全身の痛みと哀しみと生きるわずかな力で支えていたことを覚えていた。
手話は、手や指を形だけ動かすだけでない。
手話には、魂が宿る。
骨という意味だけでない哀しみの過去。
酔っぱらい。酔って。深酒。酔っちゃった。酔って気持ちがいい。
天国にいる気分だ。
ともかく、へべれけに酔った姿と動作の手話である。
左端、吞む。
次に、酔っ払い。ふらふらになり。
そしていい気分のでくねくねに歩く。立てない程酔っているので、左右の腕で自然とバランスをとっているが、その腕の開きで酔いの度合いがわかる。
手話を見る側の眼に飛び込む動く酔っぱらいの姿。動画そのものになって脳裏に焼き付く。
この手話表現を自然に表現するのは難しい。
酔いきっている事を身体全体で表現するからである。
わざとらしい表情や手話では、この酔っぱらった時の雰囲気や情景は伝わらない。
酔っぱらった気分のよい状況に、手話を見る側を引き込むことは出来ない。
ここで、注目すべきなのは手話は全身の動きで表現する、ということである。
単なる手指の囲まれた狭い動きだけ出ないと理解できる。
最近よく目にする手話のベテランと称する人々の手話は、この足許にも及ばないのは何故だろうか。
手話にはその人の魂が宿るからである。
その人の魂が宿った状況を、手話を見る人にもその手話の世界に誘う。
手話とは何か。
明石欣造さんは、全身、身を粉にして手話を伝承しようとしていた。
魂の籠もる手話を。