手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者の手話言語は一般の人の音声言語に比してどこがどのように異なるのであろうか 事実からできるだけ事実からこうした問題について考え整理  京都の手話

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  手話を知らない人も

    手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

 「1954年手話冊子」 第1章 (1)-11
            Ⅲ

 

 次にイタリアなどでは非常に多く用いられているという(京都大学文学部野上素一氏談)指摘や手話について、彼等はアパートの3階から、路上行くもの売りと、手で話し合い、籠を吊り下げて、買い物をするし、少し離れた処、あるいは、道で人に逢った時でも盛んに手を使うのだそうだ。

 

 また、工場の騒音の中で約束されて用いられている手話がある。又、その他の信号がある。

 

  一般人が使用する手話言語
     ろうあ者のそれとは
 全く同一の意味や内容を持つであろうか

 

 ところでこうした一般人が使用する手話言語と、(それは、あくまでも音声言語の基底に立脚したものである)ろうあ者のそれとは、全く同一の意味や内容を持つであろうか。

 

  一般人に近い意味でもって
手話記号でする

コミニケーションを持ち得るが
  可聴者のもつ言語の意味や内容と
異なった意味、内容や思考過程を

 

 それは、こうである。

 

 すなわち、完全な教育によって、視覚的に音声言語に習熟したろうあ者にとっては、一般人に近い意味でもって、手話記号でするコミニケーションを持ち得るのであろうが、大方の場合には、やはり何らかの意味に於いて、可聴者のもつ言語の意味や内容と異なった意味、内容や思考過程を取るのではないだろうか。

 

 そして僕達は、この前提に立ちながら、ではろうあ者の手話言語は、音声言語に比して、どこが、どのように異なるのであろうか、ひいては、表現過程が異なる、ろうあ者の思考は、一般人とはどのように、異なりながら展開するのであるあろうか。

 

 僕たちは事実から、できるだけ事実から、こうした問題について考え、整理してみたいと思うのだ。


  「1954年手話冊子」は、じつに多くの示唆を与えてくれる。

 

 検討メンバーと検討過程を承知しているだけに、断定や思い込みから手話や言語を考えようとしている事へこころからの賞賛を贈りたい。

 

 とくに、「事実から、できるだけ事実から、こうした問題について考え、整理してみたい」という姿勢は、当然と言えばその通りであるが今日の手話言語論のみを強調する人々に考えて欲しいことが豊富に提起されている。

 

 手話やろうあ者の問題をめぐって、極端から極端に発言する人々が多い。特に、手話について出版している少なくないろうあ者と主張する人々には、ある特徴があるように思える。

 

 「1954年手話冊子」で明らかにされている「完全な教育によって、視覚的に音声言語に習熟したろうあ者にとっては、一般人に近い意味でもって、手話記号でするコミニケーションを持ち得る」人々なのにそれを「覆い隠して」手話を述べていることがあるからである。

 

 ある聴覚障害者は、手話を主軸に論じているが成人になるまで手話を完全に否定していた。ところが出版された本を読むと手話唯一を主張している。

 

 即ち、文字や聴覚活用や口話法などで「音声言語」を習熟したことをひたすら隠す。文字や聴覚活用や口話法などで「音声言語」を習熟したことを肯定することは、手話否定になるという単純な考えが根底にあるように思える。

 

 そして、すべてをプラスとマイナスで論じる。

 

 だから社会的に「マイナス」とされていることを逆説的に「プラス」ととらえる「意表を突く」考えへとどんどんエスカレートして、聴覚障害の程度に一番困難な場合のみを想定して、聞こえる人々と対置して考えを述べる。

 

 そこには、個別に持つ課題と共通性はまったく考慮していない。

 

 あえてこのことを書くのは、手話唯一を主張して出版している人へ「あなたは手話などで話しかけても無視し続けていたではないか。それなのに今さら‥‥‥」などの過去を暴き立てたり、同情するためではない。

 

 書かれている事が与える弊害を考えるからあえて書くのである。

 

 だが、「1954年手話冊子」では、そのような対置や対立関係ではなく、人間が持つ身振りや手話を肯定した上で 「どこが、どのように異なるのであろうか」と考えているのである。

 

 この当然と言えば当然のことが、なぜか先駆的と思えるほど今日の手話を述べる人々の言い分は極端すぎる。