手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
ろうあ者の知性を高め
社会に有意義に生きるために
「1954年手話冊子」第2章(2)-2 手話の成立Ⅱ
(3)事物の内容から抽象して成立した手話
例えばなべ(鍋をつかんで暑かった時、自然に両手を耳たぶにあてる、そのまね)砂糖(甘い。白い砂のような)のような具体的名詞や地名などに、又概念(要約、越えて、把える)、想像(頭を指し、夢、要約)といった抽象名詞がある。
そして「手話」には、この抽象的名詞が少ないことから、対話の内容が抽象的な表現形態をとらず、従ってその意味や内容も具体的であり思考活動も単純だと言うことになるのである。
然し現在に、僕らは少しずつにでも自ら目覚めなければならないことに気がついている。
この社会に、より有意義に生きていくためには、われわれのコミュニケーションより自由に、より高い段階で行わなければならないことに気がついている。
「口話法」に習熟することは
その解決の最も大きな糸口
われわれが「口話法」に習熟することは、その解決の最も大きな糸口であることをも気がついている。
ただ僕らは彼等が「口話法」による音声言語的思考の仕方を持ち得るようになることを、ろうあ教育の基盤として考えているのであって、「手話」は然し、一般の言語力をもった可聴者が、音声記号によらず、手話記号でもって、コミュニケーションにケーションを行うな状態を、その理想と考えるのである。
「口話法」の限界
手話の必要性
なぜなら、悲しいことに「口話法」には「口話法」の限界があり(例えば講演を聞くとき、講師の口が見えず、下を向いて話される人、口ごもって話す人があるし、又、われわれ自身の発語も、自分ではなかなか調整できず、一般人ほど明瞭で、正確でないので理解されない場合が多い)
こうした場合には、「手話」はどうしても必要になってくるわけだ。
それに、「口話法」に習熟するためには、関係のない人々には、ちょっと解ってもらえないような、異常なまでの苦しみと、努力が伴うのである。
このことは一人のヘレンケラーが出るまでに、いかなる労力と時間と経費がかけられたかを考えていただければ、容易に納得していただけるだろう。
自分だけのために
最善の環境の用意が許されるろうあ者は
理想と現実
ところがこの貧しい日本の国に、自分だけのために最善の環境の用意が許されるろうあ者が、果たして何人ありとするなするのだろうか。
僕らは、ろうあ教育の理想を抱くのと同様に、この現実をも無視してはならないならないのだ。
僕らは、そういうコミュニケーションにケーションの間隙(注 かんげき)を補い、シンボル活動の手段としての「手話」を、研究していなければならないのが、残念ながら今に生かし得る僕らの仕事でもあるわけだ。