手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

大原省三さん  手話を愛し 手話を深く研究  手話 の源流 を発表 源流の意味が受けとめられない人々へ 

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

  最初に述べておきたいのは、「右手に左手を開いて右手開いた手を閉じる手話」を伊東雋祐氏は、「癖」というように書いているし、捉えていたが、これは明らかに違う。

 

 「右手に左手を開いて右手開いた手を閉じる手話」は、手の中に「取り込む」「覚え込ませる」という手話で、「癖」という手話ではない。

 

 「癖」と訳すことでその後の話の内容がまったく異なってくる。

 

 明石欣造さんは、大原省三さんとの交流をひじょうに大事にしていた。

 

 大原省三さんは、「手話の知恵―その語源を中心に」などの著作を次々と世に現し、手話の知恵、手話の語源を非常に大切にした人である。

 

 元々画家で、ろう学校の教師をしていたが、若い頃から日展に入選されるほどの腕前の持ち主であり、ウイットにとんだ話をされる。

 

 大原省三さんの自宅でアトリエで手話について長時間話し合った。彼は、戦前のろう学校の教科書を調べあげて、手話の語源を研究していた。

 

 話の中で、戦前のろう学校の教科書は漢文でとても難しく、授業に飽きた生徒は教科書の「挿絵」に魅入って時間の経つのを待っていた。

 

  その「挿絵」の中から取り入れられた手話も多い、と具体的に「挿絵」と手話の関係を教えてくれたことは今だ忘れられない。

 

 不思議なことに、「挿絵」の中から取り入れられた手話は京都の手話とほとんど一緒だった。

 

 大原省三さんと意気投合してから以降、大原省三さんの絵とともに手紙のやりとりが長く続いた。

 

 明石欣造さんと大原省三さんは、若い頃から交流があり、手話の意味や手話の大切さやその芸術性まで話が弾んだことだろう。

 

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  みなさんもご存じだと思う著名な大原省三(耳朶をつかんで=大原省三)先生。

  私は(大原省三先生を)尊敬しています。手話を非常に深く研究することに一生懸命になって非常に感動しました。
 
 私もまだまだ(意味深く研究していない=つまらない・到らない 謙譲してあえて表現している。)ですが、習得した京都の昔の手話を広め指導しているんです。