手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
途切れることなく連続して話している自分
1969年4月。
京都ろうあセンター専任手話通訳として働いて、一ヶ月ぐらいたって大阪で友人と話をした専任手話通訳者。
彼は「おまえなあ、しゃべりぱなしで、俺何も言えないやないか。」と言われた。
自分が途切れることなく連続して話していることに気がついた。
今なら誰も信じないと思うが、その専任手話通訳者は人と話したり、人前で話すことが大の苦手であった。
大学時代、多くの学生の前で話させられた時は、自分で何をいっているか解らず震えていた。
それが、いつしか、何百人、何千人、何万人の人前で話すことが出来るようになり、多くの人と論議して考えをまとめて、みんなの了承を得るようになっていた。
だが、そんな自分が「どこか」へ行ってしまったのである。
悲壮な話をしているのに
本人もみんなも笑顔と笑い
ろうあ者の方々は、出会うと手話などを通じていつも笑顔で、笑っていた。
集まると、笑いが産まれ、笑いの渦が出来る。
このことに強烈な不可思議さを感じていた。
大変な苦労をしているのにその苦労が笑いの中で話される。
悲壮な話をしているのに本人もみんなも笑顔と笑いだけになる。
同じ哀しみの輪の中にみんなが居る。
このことの重要な意味を感じながら実践し多くの人々からろうあ者の暮らしと手話を学んだ。
「つどう」。
ここにろうあ者の生活や要求や運動などあらゆる源泉があると知りつつあったが、その理論的根拠をもとめて学び続けて数十年後に一定の解明が必要だった。