手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
ろうあ者の方々がつどうのには、今では考えられない苦労があった。
電話があっても使えない時代。
ろうあ協会の人々は、手渡しでみんなが郵便配達員になってろうあ協会の会員の家に配りに行く。
車の免許も車も買えなかった時代。自転車を持っているろうあ者も少なかった。
電車もバスも少なくて、たとえ駅から歩いても遠い。
ろうあ者に家を貸してくれる人は少なく、貸してくれても遠くて不便な場所だった。
ろうあ協会の集まりを
手渡すのに何時間もかけて
一枚の「つどいの案内を渡す」のに何時間もかかることがあった。
ほとんどが徒歩。
仕事が終わって疲れ切った身体を闇の中の道をすすませる。
ろうあ者同士会えればいいが、会えなくても「一枚のつどいの案内」をポスに入れておく。
すべての道は、ろうあ協会の「つどい」に通じていた。
すべての人々が平等で
しあわせにする地下水路
この地道な積み重ねの繰り返しが、ろうあ協会の絆を次第に強く、強くしていったと言える。
その絆は、ろうあ協会の仲間はみな平等であるということだけでなく、ろうあ協会の会員でなくても、いやすべての人々が平等でしあわせにと地下水路をはりめぐらせた。
ここにろうあ協会の偉大さがあった。
インクルージョンとかカタカナ文字が叫ばれる前にすでに京都のろうあ協会は、それらをやり遂げていた。(以下、名称・表現は当時のままで表記)
人を蹴落とすことは知っていても
学ぶことで助け合うことは
知らされなかった
絆を深く深くした学びあい
教え合いのつどいのはじまり
受験戦争をくぐり抜けてきた専任手話通訳者は当時を振り返って次のように言っている。
私にとっては、学習する、学ぶというのはとても苦痛なことだった。
人を蹴落とすことは知っても学ぶことで助け合うということは全くといって無かった。
と。
ろうあ者の人々の中に
「ねたみ」「しっと」「悪口」
事実をまず書いておこう。
京都ろうあセンターが出来た頃は、ろうあ者の人々の中に「ねたみ」「しっと」「悪口」などは、たくさんあった。
それはどんな人にもあることだから当然のことだった。