手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者の生きがいのある暮らしを知事が約束 手話通訳配置だけを答弁しなかった深いわけ

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  手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
  {続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
 
   ひとりのろうあ者に一人の手話通訳を
   ろうあ者の人々が生きがいのある生活

   が出来るようにこれはお約束

 

 1966年京都府議会本会議。

 

その後のろうあ者の生活に大きな影響を与える大事件があった。

 

 京都府議が、手話通訳の問題を福島県に続いてとりあげられた。議場の演壇の横に手話通訳者。ろうあ者は傍聴席から食い入るように議場を見渡したという。

 

 ひとりのろうあ者に一人の手話通訳を、と迫る京都府議は蜷川知事に迫った。

 

 ところが蜷川虎三京都府知事は、「ろうあ者の人々が生きがいのある生活が出来るようにこれはお約束します。」と答弁した。

 

 府議会議場の真ん中に手話通訳が立ち、京都府議、知事が答弁する、二階で傍聴していたろうあ者はそれだけで大感動であった。

 

 その京都府議会は、新議会棟の移転にともない放置されたままにされていた。
 
  知事答弁の
「ろうあ者の人々が生きがいのある生活が出来るよう」の深い意味

 

 数年前から京都府議会図書館と旧議会場を数え切れないほど往復することとなった。京都府議会図書館で、1950年代から1980年代にかけての京都の障害者問題や障害児教育が京都府議会本会議でどのように取り上げられてるのかを調べるためであった。

 

 膨大な本会議資料に目を通してコピーを頼む。そのコピー代は離れた旧府庁府議会本会議場の情報開示の窓口に行って支払わなければならなかった。

 

 非常に面倒なことであったが、旧議会場の二階を見てああ、ろうあ者の人々があそこで傍聴したんだと何度も眺めているうちに蜷川虎三京都府知事が「ろうあ者の人々が生きがいのある生活が出来るようにこれはお約束します。」と答弁したことの真意が理解できかけた。(現在は旧府議会議堂は改装されている。)

 

  たとえひとりのろうあ者に一人の手話通訳者がいたとしても「ろうあ者の人々が暮ら」していけなければ何の意味もないではないだろうか、なによりもろうあ者の人々の暮らしが日々生きていてよかったと思えることが大切だがそれだけでは不充分だろう、と考え、ろうあ者の人々が集い憲法を学んでいただく。

 

 主権者であることの自覚の上に京都府政に要求を出して暮らしを守る主人公になっていただくことが大切だ、と考えたのではなかろうか。

 

   試食した満腹感
自分たちの悩みを話すなかで憲法学習


 その憲法を学ぶ方法は、講義を聴いてノートすることではなく暮らしの中で学んでゆく。

 

 午前中は料理教室で午後からはそれを試食した満腹感の中で自分たちの悩みを話し交流する。

 

 その方法は、ろうあ者のそれぞれの地域でそれぞれの方法で行われるようにして、その援助を京都府がするということであった。

 

  ろうあ者の人々は、憲法は自分たちのものであり、自分たちのことも含めて書かれている。

 

 でも、書かれていることと現実とは違うではないか。

 

 これはおかしい。

 

 私たちが要求を持ち寄り、要求を実現してこそ憲法が生きているということになる。

 

 そのように学び始めて「陳情」から「要求」へとろうあ協会は飛躍的な行動を開始する。

 

 このことはろうあ者自身にとっても社会的にも国際的に見ても画期的な行動であり、運動であったことを知る人は少ないのではないだろうか。