手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
幼稚部から高等部まで
身振りや手話は使われている
聾学校では、手話が禁止されていた、と断定的に言う人がいる。
感覚や感想の孫引きではなく、真剣に主張の根拠を調べたとは言いがたい。
過去のことだからと勝手に自分なりの彩りを添えることは許されない。
最近、1950年代前半から半ばにかけての貴重な8mmフイルムを入手した。またそれを裏付ける当時の先生の長時間にわたる証言も得ている。
そこには、幼稚部から高等部まで身振りや手話は使われている。
もちろん補聴器や聴能器機も使われているが、口話しか出来ない先生もいた。
聾学校では手話は禁止
されていたとは言えない
だからといって京都府立聾学校では手話は禁止されていたとは言えない。
フイルムには、今も健在な聾学校卒業したもいるし、亡くなられた方もいる。
そこで生前、手話も含めた授業をしていて公開することを是としたた先生たちの写真を掲載しておく。
この頃、一クラスの生徒が多かった。授業は比較的大きな手話ですすめられた。授業中、生徒同士が手話などで授業の内容を話し合うことはとても大切な事として考えられていた。他のおしゃべりにすすむと集中するように、生徒も先生も言い合っていた。
生徒の意見を出し合い、授業の内容などがわかり合えると先生は、「キットね」「約束ね」「絶対ね」などなどで生徒全員に知らせて、次の授業へと展開した。この時の表情はとても大切であったとされている。授業から授業への「節」は生徒の成長にとってとても大切な事として、教師はていねいに「締めくくり、次の課題」にすすんだ。
「よそみ」をしていても叱られることはない授業風景。巧みな手話で授業する先生は、「魅力ある授業」にしてこそ生徒が集中するという。教師の表情と大きく手話で語る姿に注目。手話もとり入れた高度な授業が展開されていた。
上の写真は高等部生徒総会の一コマ。校庭で自由に手話で話し合い。手話は、集団コミュニケーションであることをろう学校で学んだ生徒も多い。このことが後の「京都ろう学校授業拒否」事件に繫がると知る人は少ない。
学校長の前で生徒たちが手話で会話
当時生徒だった人々の個人もかなり特定出来る写真もあるため、プライバシーの関係で掲載はしないが、生徒同士で口話や手話や文字などで教え合っている様子は微笑ましいものもある。
また学校長の前で生徒たちが手話で会話している様子もある。
手話を禁止して口話だけ
という公式見解はない
戦後の京都府立聾学校のあらゆる公式文章を調べた。また京都府教育委員会担当者にヒヤリングをしたが、手話を禁止して口話だけする指導という公式見解は一切なかった。
でもこのことを言うと、手を後ろに回して口話だけで教えられたという人もいるが、それで聾学校で手話が禁止されていたと言うことにならない。
コミュニケーションのあらゆる手段が使われていたが、それぞれの先生のそれぞれの思いであるコミュニケーション手段のみ使われていたと考えるべきだろう。
ろう教育を画一された教育だったと思い込んでいる人々には、理解出来ないと思うが。
ただ、1960年代後半になると幼児教育分野でインテグレーションがさかんにい言われて、口話に固執する先生も増えるが、かといって京都府立聾学校が学校として口話を推進して手話を禁じたと言うことにはならない。
現在の京都府立聾学校幼稚部の教育では、あらゆるコミュニケーション方法が取りい入れられて授業が進められている。もちろん手話も。
その手話は、京都で培われてきた手話が用いられていてそのほうが幼児期の子どもの教育に適しているという先生もいる。