手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃のことから}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
手話通訳をとても長く続けてきた仲間が集まって話したことがある。
「今、手話を学ぶ、ということになれば、たぶん学ばないだろうなぁ」ということで意見が一致した。
カシャカシャと手が機械的に
動かされてそれが手話とされて
手話検定試験と資格とか、正しい手話とか、間違った手話とかだけが表面的に横行して、うあ者の人々が意図的でない場合もあるが知恵を結集して創り上げてきた手話について人間性が省かれてしまって、カシャカシャと手が機械的に動かされてそれが手話とされている。
手話のもっている本来の人間同士のコミニケーションが通じ合うと言うことが、次第に失われていっているのではないか。
手話通訳をするときの人間的基礎が
「瓦解」してきているのでは
また、聞こえる人間が手話を学び、手話通訳をするときの人間的基礎が「瓦解」してきているのではないか。
手を動かすことだけが手話ではないことをもっと多くの人々に知ってもらいたい。
手話を覚えた切っ掛けは「へー、なるほど」「そうなんか」「そんな表現、うーん」という感動というか、極限まで追い詰められた人間が人間性を取り戻すための表現手段としての手話に、いいようのない人間的ぬくもりに抱かれたことから手話を学びはじめたのではないか、ということになった。
政府やメディアなどで
さかんに使われている「新語」
次々と新しい手話として
一部の人がたちが作り
また新しい手話として現在政府やメディアなどでさかんに使われている「新語」なるものを次々と新しい手話として一部の人がたちが作りあげそれが画一的押しつけられる現状を是としていいのだろうかと思う。
2017年11月29日付け毎日新聞に詩人アーサー・ビナードさんの「直感」が掲載されて、「日本語は消滅に向かっていてる」とさえ言っている。