手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃のことから}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
頭の中に入れないと
真似たことにならない
手話は、ろうあ者と接して、それを「真似て」覚えた。
もちろんビデオも手話テキストもデジカメもなかった時代である。
でも、手話を「真似る」=学ぶ ことは学生時代より多くのことが学べた。
京都では、真似る、と言う手話は、手をさしのべて「つかんで」、頭に入れる、というのが「真似」であった。
頭の中に入れないと、真似たことにならないのである。そこには、ただ単に同じ動作の手話をするということではなく思考=取捨選択や覚えやすいなどのことも含まれていたように思える。
明治時代、大正時代、昭和を
過ごしてきた人の手話には大きな違いが
出会うろうあ者のひとりひとりの手話を「まねる」ようにろうあ者から言われた。
しかし、これは大変なことであった。
明治時代、大正時代、昭和の戦前、昭和の戦後を過ごしてきた人の手話表現は大きな違いがあった。
路面電車 市電の歴史的表現の中の暮らし
例えば、「市電」。
最近京都の交通博物館で日本で最初に走った電車。路面電車を見に行った。そこで改めてろうあ者の人々の手話の極致と生きた時代を思い浮かべることが出来た。
明治時代に生きた人は、路面電車の手話は、手をぐるぐる回す。
大正時代、昭和の戦前を生きた人は手を「└┐」と動かす。
昭和の戦後を生きた人は市電のパンダグラフを、左手の二本指を電線に見立てて右手の二本指をパンダグラフに見立てて左手の二本指に右手の二本指を這わせて市電の動きを現すなどさまざまであった。
雨が降ったら入り口に
立って居たらずぶ濡れに
今、市電がなくなったためこの手話表現は、「死滅」させられているが、日本で最初の電車である路面電車が京の現在の京都駅付近から伏見までを走り、それに乗っていたろうあ者は無心になって市電の運転手の様子に魅入っていたことが解る。
昔は、ドアーがなかったから、雨が降ったら入り口に立って居たらずぶ濡れになった、と言うろうあ者の話をきいて調べてみたら明治時代初期、京都で走った路面電車には、ドアーがなかった。
たしかに再現された路面電車の乗り降りする場所には、ドアーがなかった。
オランダの保存路面電車がTVで放映された時、路面電車を動かすのに取っ手をぐるぐる回していた。
御影石を日々みながら
あの日、あの時のことを
私が手話を学びはじめた頃は、路面電車が走っていた後は、細い道路として残され、その頃の線路が残っていた。
京都堀川沿いの道を案内してもらってアスファルトに埋もれたレールを見たときは驚と感動が入り交じったが、今は全く残っていないが…。
京都の市電。ろうあ者と共に、ろうあ者の家を訪ねてとその思いは果てしがない。京都市電廃止の大運動があったけれど、結局全廃させられしまった。
市電が走っていた線路を支えた御影石。とてつもなく重い。
京都市が、それを撤去して、売却した時にほんのすこしだけ御影石を買った。その御影石を日々みながらあの日、あの時のことを考えている。