手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
言い合い、言い争いで疲れた結果
ろうあ者の気持ちを知らなさすぎる、と言われての言い合い、言い争いの結果疲れ果てしまった。
その後、喫茶店でいつものようにコーヒーを飲みながら話すと
「ろうあ者のCさんの話も、向かいの聞こえる奥さん話も、どちらの言っていることにも理解できることがある。聞こえない、聞こえるという違いを強調するのではなく、その共通点から考えてみよう。」
ということになった。
ろうあ者の気持ちを知らなさすぎる
と言わると そうなんだ
と思い込んでいる中にあるもの
このことは、今だからとても大切なことだったのだったと分かる。
最近よく見聞きするのは、ろうあ者の気持ちを知らなさすぎる、と言わたりするとすぐ聞こえる人が全面的にそれを受け入れたり、心の中では、そうではないのに、と思いながらも何も言い出せないで居ることである。
それが当然のようになっていることが主流になっていないだろうか。
ろうあ者の気持ちを知らなさすぎる、と言わると、そうなんだ、と思い込んでいる中にろうあ者全体に広げて自分の意見を隠しているとか、自分は聞こえるから聞こえない人はそうなんだ、と思い込んでいないだろうか。
ここには、従属的な関係はあってもお互いが平等な基本的人権を持ち合わせているという考えはを退けてはいないだろうか、と思う。