手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
Cさんの教員採用試験不合格問題の第三回目の京都府教委との交渉。
Cさんを一番理解し、聞こえない教師の不採用という問題に「激高」していいはずのろう学校の教師の参加はなかった。
でも、Cさんは「孤独感」を抱くことなく交渉に参加していた多くの教職員と親しくなり、お互いに励まし合う関係が出来ていた。仲間と連帯の輪が想像を超えて広がっていたからである。
三度目の教員採用試験
Cさんはろう学校の教師に
結果的に京都府教委は、Cさんが二度にわたって受けた教員採用試験で面接まですすみ、不合格になった理由を明かさないまま、教員採用試験は厳正に実施する、と言うことだけ言って後は黙りを決め込んだ。
採用試験を遡って考える、ことは絶体考えられない事だった。
第二回の交渉からCさんもそのことを理解していたのだろう、三度目の教員採用試験を受けることになった。
採用試験は、すべて合格。Cさんは、ろう学校の教師になりたいと希望してそれが実現した。
遙か昔のろうあセンター時代の
旅費をめぐって謝ったCさんの胸の内
そのことは知っていたが、用事があってろう学校に行った時に満面の笑みでCさんは、ありがとう、ありがとう、と言いつつ、あの時は悪いことをした、自分の中に僻みがあった、と言ってきた。
てっきり、府教委との交渉の件だと思い、そんなことは気にしなくてもいいよ、と言ったが違った。
アヤベとソノベを聞き違えてタクシーに乗ったろうあセンター時代の旅費の事だった。
ろうあセンター時代のろうあ協会の会計担当だったCさんが言ったことの詫びだった。
遙か昔のこととして済んでいたと思っていたが、Cさんは自分が言ったことをずっーと心に仕舞い込んでいたが、府教委交渉に参加する中で謝らないといけないと思い続けていたと吐露した。
なんでもかんでもろうあ者は、
と言っている人は
ろうあ者の「衣」を被って
自分のことだけを言っている
許してや、そんなん気にすることはないよ、教師になれて良かったなぁ、という話で終わった。
が、Cさんは、なんでもかんでも聞こえないからと言って聞こえない人は、ろうあ者は、と言っている人は、結局、ろうあ者の「衣」を被って自分のことだけを言っているし、ろうあ者問題の理解者と言われている人もしょせんは、ろうあ者問題を「利用」して自分の存在をアピールしているだけなんや。
俺もそんなことをしてきた。
そのことに気がついた。
これからは、絶対そんなことはしない、と言い切った。
ろうあセンター時代の旅費の問題、Cさんの教員採用問題は、それでひとつのエピーソードとして記憶に残った。
だが、数年後にさらに知らなかったことが聞かされることになる。