手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
京都に住んでいていいですねぇ、としばしば言われる。
その「いい」ものの中に京都の伝統工芸などをあげられる人と出会うと急に落ち込んでしまう。
最近になってようやく、伝統工芸品を鑑賞できるようになったが、必ずある工芸品が展示されているところは必ず精神的に迂回してしまう。
せめて障害者が作った作品を
自らの金で買えるぐらいの給料を
この作品は、展示されている処に書かれている制作者が、本当に作ったのかよ、と叫びたくなるからだ。
障害者が作っていて、制作者は贅沢三昧の遊びでばかり。
出来上がったものに「銘」を入れて「判」をついて、桐箱に入れるだけだったことを知っているからだ。
せめて、障害者が作った作品を自らの金で買えるぐらいの給料を一度でも出したことがあるのか。
一晩遊ぶ金を、一度でも障害者にボーナスとしてでも出したことがあるのか、と思うからである。
京都伝統工芸数十年の技ではなく
△△さんの技だろう
最近、テレビを見ていて京都伝統工芸数十年の技。私は、数十年これを作り続けて‥‥‥と「制作者」が語る映像を見ていて、あなたが作ったのではない△△さんだと言ってしまった。
△△さんの職場を何度か訪ねた時があるが、先代はもちろんそれを受け継いだ、という人はいなかった。
△△さんに聞くと、いつものこと、と言う返事だけだった。△△さんの伝統技術を自分の技術と言う人へ腹立ちだけが残っている。それも一人や二人ではない。