手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
Dさん夫婦に対して京傘屋の親方の態度やろうあ者に対する「誰のおかげで、おまえのような奴を雇ってやったと思うのだ。」「なに、給料だと、出してもらっているだけでもありがたいと思え。」「お前のようなろうあは、だれが雇うと言うのや」「頼まれたから、使ってやっているのにその恩もわからんのか。」罵声などは、1969年のころは数え切れないほどあった。
勉強より手に技術を持って
生きる事が大切
ろうあ者には「手に職」を持つことが大切、と戦前から言われ、「勉強より手に技術を持って生きる事が大切」とされ職業教育は、ろう学校教育で重視されてきた。
どんなに勉強しても、手に職がなかったら生活できないから、雇ってもらえないから、とさまざまな職業教育がろう教育の話され少なくない教師が生徒にも親にも、家族にも、社会にも言い続けてきていた。
あきらめることのない深い疑問
だが、それを信じ生きてきたろうあ者たちの、10年後、20年後、30年後はどうなって行ったのかは考えられてはいなかったと思えてならない。
京都ろうあセンターの職員は、あきらめることのない深い疑問を持ち続けるようになった。
行政の回答に
「おかしい」「ヘン」の手話を繰り返して
思いっきり手を振って、私たちを見送ってくれたDさん。
「いらん、いらん、」「今がいい」と言っていたIさんたちは、その後ろうあ協会の運動で大きな力を発揮してくれた。
京都府・京都市などの行政交渉には休むことなく参加して「同じ」・「同じ」=「そうや」「そうや」と手話での「相づち」を送り続けていた。
さらに、行政の回答に「おかしい」「ヘン」の手話を繰り返していた。
この力が、今日のろうあ者の人々の悩みや困難の理解をひろげ、手話や手話通訳を社会的に認めさせていくようになったと今でも確信している。
こころの底まで
冷えさせるような2月
ろうあ者に対する理解の広がりは、一部の人や一握りの集団が、今日の社会的理解を産みだしたのではない、と思い続けている。
そのことについてはまたの機会に紹介したい。
京都の2月は底冷えがひどい。
鉄鍋の底を凍らすジンジンした寒さ、比叡おろしの風はこころの底まで冷えさせるような気持ちがする。
そのような2月。
ろうあ協会の役員とろうあ者3人である県のK市を訪れた。
同行のTさんは、ろうあ者のC子さんと結婚の約束をしていた。
C子さんが外出はもちろん、京都に来ることについて固く禁じられていたからだ。